長福丸が弟にかけた言葉を兵庫は…
長福丸が元服することは、幕閣と長福丸たち吉宗の男子三人がそれぞれ乳母を伴って、中奥に集められて告げられた。
吉宗には他にも男子と姫があったが早世し、長福丸の次は十歳になる小次郎丸、もう一人は四歳の小五郎丸だった。それぞれに母は異なるが、その皆がすでに母とは死に別れている。
まだ幼い小五郎丸も小次郎丸も、どちらも聡そうな整った顔立ちをしている。長福丸にしても片頬が引き攣れてはいるが、それほど見劣りするものではない。ただ体つきにはやはり差があって、三人が一列に並ぶと長福丸の背丈はほとんど小次郎丸と変わらなかった。
これからは長福丸を若君と称すると吉宗が告げたとき、澄んだ水面にとつぜん一粒のしずくが落ちたように広間の気が震えた。皆が手をついて頭を下げ、吉宗はその前を眉一つ動かさずに出て行った。
次に座を立つのは長福丸だ。だが右足を投げ出して座っているので、すぐには立つことができない。
まず左手をつき、用心深くそこに重みをかけていた。
左の足首を立ててようやく立ち上がったとき、隣で小次郎丸が鼻息を吐いた。
──若君になられようと、先に元服あそばされようと、いずれ私も元服します。武門の棟梁が、そのようなお身体で。
まだ幼い小五郎丸まで、あからさまに唇を尖らせて目を逸らしたという。
そのとき長福丸はそっと口許を動かした。
「三言ばかり、仰せでございました」
「長福丸様が」
「はい。ですが小次郎丸様は首を振られました」
──何を言うておられるか、さっぱり分かりませぬ。
長福丸は一つうなずき、あとは黙って踵を返した。
「長福丸様は、何と仰せだったのだ」
兵庫の頬を涙が伝って落ちた。
「そなたが先であれば良かったな、と」
そうして長福丸は優しく弟の名を呼んだという。
「小次郎丸。我らは兄弟ではないか、と」
だが小次郎丸は耳を両手でふさぎ、顔を背けていた。
「おじ上。それがしは、長福丸様のこのようなお言葉も、誰にも伝えてはなりませんか。それがしが真に迷ったのは、あのときだけでございます」
幕閣の心ない言葉など、兵庫はいくらでも一人で胸に呑み込んでおく。だが長福丸のこんな言葉は、誰より長福丸のために、小次郎丸や吉宗に聞かせたいではないか。
だが兵庫などが小次郎丸たちのもとに駆け寄って自ら口を開くことはできない。長福丸の口は、目や耳になってはならないが、勝手に動いてもならぬのか。
「ああ、ならぬ。長福丸様はご立派な目も耳も、頭もお持ちではないか。それをそなたが奪ってはならぬ」
あのとき涙を溜めていた兵庫を見て、長福丸は言った。
──今の私には兵庫がいるではないか。言いたいときは言えると思えば、何も辛抱しているわけではない。
「それがしの口だけを取って、長福丸様のおそばに置きとうございます。あのようなお身体で若君様と呼ばれなさるお苦しみを思えば、それがしは口のみになってお仕えしとうございます」
忠相はついに座を立って兵庫を抱きしめた。
「誰にも申してはならぬ。私にだけ、もう一人の己だと思うて、私にだけ話せ」
忠相は二度と己の保身などは願わない。この兵庫の前では、吉宗の改革を手伝いたいという己の願いさえも我執にすぎない。なによりも、真に改革の完成を願うなら、忠相がともに駆けねばならぬ相手こそ兵庫だった。
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