長福丸が兵庫に授けた知恵
その日、忠相は朝から落ち着かなかった。兵庫が昨夕から城を下がり、ふたたび城へ戻る前に忠相の役宅へ立ち寄ることになっていた。妻にはまるで花嫁でも待つようだとからかわれたが、門まで出ては辻のほうへ首を伸ばしていた。
幾度目かで座敷に入っていたとき、表で訪いの声が上がり、かすかな足音が廊下を近づいて来た。
忠相は自ら障子を開けて出迎えた。
「これは、御奉行様」
兵庫はすぐその場に平伏した。前に会ったときより板についた身ごなしで、さらに控え目になっていた。それだけでも兵庫の心労が偲ばれるようで、忠相はいっきに目の前が滲み、あわてて瞼をぱちぱちとさせた。
「堅苦しい挨拶はよい。私のことはおじ上とでも呼ばぬか。私はとうにそのつもりだぞ」
兵庫は素直に顔を上げると、目を輝かせて微笑んだ。鼻筋が通っているだけで他はありきたりな顔なのだが、こちらの欲目か、謙虚で温順な性質がまっすぐに伝わってくるような気がした。
忠相は兵庫の背を庇うようにしながら座敷へ招じ入れた。
御城では先達て長福丸を若君と呼ぶように正式な達が出され、明年四月には元服の儀が執り行われることになっていた。さらに内々では長福丸の縁組も進んでおり、これも年明けには決まるといわれていた。
それらのうち、どれ一つ、兵庫が関わっておらぬものはない。
「御城ではさぞ辛いこともあるだろう」
「とんでもない。身に余る有難い日々でございます」
兵庫は清々しく笑って応えた。
「どうだ、長福丸様はそなたにお優しゅうしてくださるか」
「はい。若君様は、舌が少しご不自由なだけでございます。書を読めばたちどころに諳んじなさいますし、ひとたびお耳に入ったことは決してお忘れにならぬ類いまれな頭をしておいでです。上様のお定めになった新制も、諸侯の領国がどのような土地で、何が特産かも、全てご存知でございます」
「なんと。長福丸様とはそのような御方か」
「はい。ずっと書を読むのだけが楽しみだったと仰せでございました。将棋は、どうにも駒が持ち難うございますので」
長福丸は左半身には目立った麻痺もないが、指はずっと震えている。だから左手で筆を握ることもできなかったのだ。
「それがしが参るまでは、その指で書をめくっておられましたとか。それがしが長福丸様の黒目を追い、折良く頁を繰りますゆえ、たいそう喜んでくださいました」
と、兵庫は途端に顔を赤らめた。だが忠相にぐらいは、長福丸に褒められたことを聞かせてほしい。
「実はそれがしは御老中様から、上様の拓かれた新田の在地を申せと尋ねられたことがございます」
「ああ、聞いたぞ。見事な返答だったそうではないか」
そもそも、尋ねるなどという生易しいものではなかったはずだ。
だが兵庫はにこやかに首を振った。
「あれはそれがしの手柄ではございませぬ。いつお呼び出しがあるやもしれぬと、前々から長福丸様が覚えておくように仰っていました」
忠相が首をかしげると、兵庫は子供がするように身を乗り出してきた。
「老中、若年寄様方の来歴に領国。国許では何が盛んか、あらかじめ長福丸様が教えてくださっておりました」
「まことか。では、上様の新田のことも」
「左様にございます。上様のご改革については、いつか必ず質されるに違いないと仰せでございました。それゆえお呼び出しの折、お二方の仰せになったことをそのまま繰り返すことができたのでございます」
「いや、そのまま繰り返しただけでも大したものだが」
なにせあの乗邑が裏をかかれたのだ。しかも長福丸は老中たちの手の内を見抜き、吉宗の改革については先から理解しているということだ。
「正真、長福丸様はそこまでご聡明か」
「はい。将棋の棋譜など、ごまんと頭に入っておいでです」
書けぬゆえ、憶えるしかなかったのだ。だが憶えていても、これまでの長福丸には話して聞かせる相手もなかった。
「そうか。兵庫は仕合わせなのだな」
「はい。御城下におりましたときより、ずっと毎日が愉しゅうございます」
「だが私は辛いぞ。そなたが長福丸様の小姓になったために、私まで上様や御老中がたに目をかけていただく。身の程を思えば、尻がむず痒くなる」
忠相はもぞもぞと身体を動かして兵庫を笑わせた。
「私とそなたは、もはや死なば諸共ではないか。親にも吐けぬ悪口、これからは私に吐いてゆけ」
寸の間、兵庫が目を見開いた。
「そなたの御役は生涯続く。ならば初めはそなたさえ気づかぬ小さな疵でも、いつかは身体中の血の気が失せるほどになるかもしれぬ。そなたのために申しておるのではない。長福丸様の御為だ」
いつか兵庫が御役を投げ出すようなことになれば、誰より困るのは長福丸だ。
「そなたはまだほんの少年ではないか。歳がゆけば、そのうち自ずと堪えられるようにもなろう。だが、今はならぬ。今は私に、全て話してゆくがいい」
兵庫の二親よりは、まだ忠相のほうが多少のことは分かるはずだ。
「おじ上……。本当にそうお呼びしても宜しゅうございますか」
「ああ、かまわぬ。ここではそなたは若君様の通詞ではない。私にとって兵庫は、もはや甥どころではない。もう一人の己と申してもよい」
それでも兵庫はしばらく躊躇っていた。
だがやがてゆっくりと顔を上げた。
「おじ上にしかお尋ねできませぬ。それがしが正しかったかどうか、お教えくださいませ」
「承知した。私をもう一人の己と思うて、尋ねてみよ」
兵庫は唇を噛みしめてうなずいた。
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