兵庫が聞いてしまった言葉
「おじ上はそれがしに、長福丸様の目と耳になってはならぬと仰せでございました。ならばもし、万が一……」
早口になったかと思えば押し黙る。忠相はいくらでも待つという証に、悠然と胡座を組んだ。
「もしも、たとえば幕閣というご身分のある御方が……」
忠相は黙ってうなずいた。できるだけ頼りがいのある様子をしてみせたかった。
「長福丸様のことを、汚らしいまいまいじゃと仰せになられたようなときは」
「まいまい? かたつむりのことだな」
兵庫は思い詰めた顔で唇を噛んでいる。
「長福丸様はお身体のために、どうしても尿を堪えることがおできになりませぬ」
「ああ、存じておる。だというのに長々と座敷に座っておられねばならぬことも多かろう」
「はい。あのように広いお座敷にじっとしておられれば……」
兵庫は苦しそうに顔を歪めた。そして思い切って口に出した。
「お座りになった跡が濡れているときがございます。濡れた袴でお歩きになるのは、さぞ心地悪かろうと存じますが」
そんなことまで推し量っているのは、表ではきっと兵庫だけだろう。
濡れて色の変わった袴で、長福丸は皆の前を歩いて戻らねばならない。
そんな長福丸の歩いた跡は、まいまいが這った葉のように、ときに滴が残っている。
「それを、汚いまいまいつぶろもおったものよと聞こえよがしに仰せになりました」
忠相は激高して立ち上がった。
「誰じゃ、そのようなことを申しおったのは」
兵庫が微笑んで忠相の袴を引っ張った。
運良く、一足先に退出していた長福丸には聞こえていなかった。むろん、だからこそ言ったのだ。
「それがしは、それを長福丸様にお伝えしてはなりませんね」
なにより長福丸を悲しませることになる。だが兵庫が言わなかったのは、そのためだけではない。
「それがしが間者のような真似をすれば、その御方はそれがしを長福丸様のおそばから遠ざけてしまわれるでしょう。あるいはそれを確かめるために、企まれたのかもしれませぬ」
そうなれば長福丸には再び不自由な暮らしが始まる。兵庫は長福丸に、それだけはさせたくない。
誰なのだ、そんなことを言ったのは。兵庫を試みるのは、正面からだけではないのか。しかもたとえ兵庫を試みるためだとしても、あまりにも無礼ではないか。
「おじ上が目と耳になるなと仰せになったのは、そういうことでございますね」
「誰だ。幕閣にそのような物言いをする御方がおられるのか」
「ものの喩えでございます」
兵庫はけろりとして笑みを浮かべた。
「それがしは御口であるときは、鏡にでもなったつもりで言葉を映し、長福丸様の御事すら思わぬように心がけております。ですが小姓として長福丸様のおそばにおりますときには、しっかりと血の通った心でお仕えしとうございます」
兵庫は己の胸に手のひらを当てた。
「となると、長福丸様に悪意を向ける者のことはお知らせしたい。ですが、それはしてはならぬのでございますね」
「そなたの聞き違え、見間違えということもある。第一、そなたも全てを見聞きすることはできぬな」
兵庫はまっすぐに忠相を見つめている。
「そなたの申した通り、そなたを試されたのかもしれぬし、単にそなたを侮られたのかもしれぬ。だがこれから先、そのようなことを考えればきりがない」
あれは伝え、これは伝えぬと兵庫が己で決めることは許されない。兵庫は長福丸の口ゆえに傍らにいる。口は、目と耳から離れて勝手に歩いたりはしない──
忠相にはその者の企みが透けて見えるような気がする。
その者は兵庫が口の軽い追従者かどうか、さっさと知りたかっただけだろう。まだまだ兵庫を遠ざけることくらい雑作もない。吉宗の前で己と兵庫、どちらを信じると開き直ればよいだけだ。
だが長福丸が将軍になれば、そのときはそうはいかない。だからその者は、長福丸の廃嫡を確信しているということになる。
忠相は正直、兵庫を揺すぶってでもその者の名を聞き出したかった。だが聞けば己は、兵庫のようにじっと口を閉じていることができるだろうか。賢しらに、それこそ吉宗の信任を笠にきて、大手柄とばかりに注進するのではないか。
つくづくと忠相は兵庫を見つめた。よくもたったの十六で、これほど恬淡としていられるものだ。
「今の己を貫き通せ、兵庫。私は真に、そなたならばできると思う」
「もう一つ、よろしゅうございますか」
「百でも二百でも、いくらでも話せ」
忠相は涙がこぼれそうになった。兵庫の行く手にどれほどの困難が待ち受けているのか、不憫で堪らなかった。幕閣ともあろう者が、こんな少年になんと狡猾なことをするのだろう。
「長福丸様の明年四月の御元服が告げられたときのことでございます」
兵庫は膝の上で静かに手のひらを組み合わせた。
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