「そなたは決して、長福丸様の目と耳になってはならぬ」
「そなたは近々、御城へ登ることになるだろう。これから先、そなたがどれほど戸惑うことになるか、私にも分からぬ。せめて私にできることがあれば、何なりと助けよう」
だが忠相にこの少年を助けてやれることなど、ただの一度もないのかもしれない。
「兵庫には心しておかねばならぬことがある」
「はい」
「そなたは決して、長福丸様の目と耳になってはならぬ」
「目と耳に……」
長福丸が見るはずのないもの、聞くはずのないこと、それらを告げ知らせることは兵庫の役分を超える。
その意味が十六の少年に分かるだろうか。だがもしも兵庫がこれを取り違えれば、幕府もこの世も、昔のように歪んでしまうのだ。
幕府では五代から七代に至る将軍が側用人を置き、幕閣がないがしろにされる政が続いた。それがようやく吉宗の襲職で家康の昔に改められたのだ。だというのにそれがまた元に戻れば、ここまで積み上げてきた改革がすべて水の泡になってしまう。
「長福丸様は、目も耳もお持ちである。そなたはただ、長福丸様の御口代わりだけを務めねばならぬ」
兵庫はまっすぐに忠相を見つめた。
「目や耳に、なってはならぬ。御奉行様のお教えは生涯決して忘れませぬ」
か細いとらつぐみの鳴き声が響いてきた。
忠相はこれほど清らかな鳴き声をかつて聞いたことがなかった。二人でそのまましばらくその声に耳を澄ませていた。
二
秋、兵庫が長福丸の小姓に任じられて一月余が過ぎ、忠相は久々に御城へ登った。老中の松平乗邑に呼び出されていたのだが、先に滝乃井が現れたので驚いた。せいぜいが中奥までしか出ない御年寄が、表までいそいそとやって来たのである。
「なに、妾のような婆が御廊下を歩くぐらい、上様も大目に見てくだされよう。ま、すぐに退散いたします」
忠相が滝乃井に会ったのはこれで二度目だが、前とは人が違ったように明るい顔をしていた。
「越前殿。あの御子じゃ。よもやあれほど上出来とは思いも致しませなんだ」
人目を気にしてか、わざと人に聞かせたいからか、滝乃井は障子を開けさせたままで話し始めた。
「もしや兵庫のことでございますか。如何でございましょう」
「それがのう。長居は許されぬゆえ、一つだけで帰りますが」
滝乃井は笑って口許に人差し指を立ててみせ、どういうわけか目尻の涙を拭った。
「長福丸様のご短気が嘘のように止みましてなあ」
「ほう。ご短気であられましたか」
聞いてはいるが、ここはとぼけておいた。
滝乃井は真実急いでいるようで、せっかちにうなずいた。
「これまで長福丸様には風呂を遣うていただくのが一苦労で、いつもなかなか入ってくだされずに難儀しておりました。入れば入ったで鴉の行水、侍女たちは皆、頭を抱えておったものじゃ」
兵庫が来てすぐのとき、夕刻にやはりその悶着が起こった。
長福丸が滝乃井の手を乱暴に払いのけて何ごとかを言ったので、兵庫がすかさずその言葉を伝えた。
──今日は尿を堪えておれぬ気がする。それゆえ湯には浸かりとうない。
滝乃井は驚いて、長福丸を不躾に見返してしまった。
──もしや、そのような理由でいつも湯殿を避けておられたのでございますか。
長福丸は煩わしげにうなずいた。こんな問いかけは、これまで誰も長福丸に与えてやることができなかったのだ。
だから滝乃井は勢い込んで言ったという。
「畏れ多くも長福丸様の遣われた湯を、他の誰ぞが後から使うことなどございましょうか。長福丸様が浸かってくださらねば、掃除の者は空しゅう汲み捨てねばなりませぬ、と」
その折のことを思い出したのか、滝乃井は今度はころころと笑った。
「長福丸様はそれこそ、鳩が豆鉄炮をくろうたようなお顔をなさいましてな。以来、風呂は欠かされませぬ」
滝乃井は立ち上がった。だが次々に湧いてくる話を、どうにも抑えられないらしい。
「万事、この調子でな。我らは、そうであったか、そのような理由がおありだったかと、一つひとつ腑に落ちる日々でございます。まこと、兵庫が来てくれて、なんとなだらかな暮らしに変わったことか」
滝乃井は思わず忠相の手を取りかけて、あわててその手を引っ込めた。忠相もつい釣り込まれて微笑んだ。
「どうぞ、増長の兆しが見えますときは、きつくお叱りくださいませ。滝乃井殿だけが頼みの綱でございます」
「あの者のことでは、越前殿は何も案じられることはないと思いますぞ。分かっておりますとも、なにせ妾は、あの者とともに自害いたす身じゃ」
「ああ、そのお言葉ほど有難いものもございませぬ」
これでも滝乃井は複雑奇怪な大奥を巧みに泳ぎ渡っている老女である。大奥にも首座というものはあり、今のそれは六代家宣の正室、天英院で、次席は七代家継の生母、月光院だ。滝乃井も長福丸を守るために、身の細る思いをしているはずだ。
足を掬おうとする者ばかりの表と奥で、真に長福丸の幸いを考えていたのは滝乃井だけだったのかもしれない。それなら兵庫を庇ってやれるのも、奥では滝乃井ただ一人だ。どう足掻いても、表の忠相にはその力はない。
「滝乃井殿、どうか呉々も兵庫のことをお頼み申し上げます」
忠相は手を合わせたいほどだった。わずか一月前、滝乃井が忠相にそうしていたのを思い出す。
「妾と越前殿は、ともに兵庫に喉元を押さえられておるようなもの。せいぜい奥では妾が目を光らせまする」
そう言うと滝乃井は衣の裾を蹴立てて奥へ帰って行った。