長福丸と少年・兵庫との「会話」とは
最初、ふいに立ち上がった長福丸は、どうせ将棋を指せる者などおるまいとつぶやいた。だから兵庫は、将棋がお好きでございますかと尋ねた。己が最前列にいたので、応えなければならないと思ったのだという。
すると長福丸が、言葉が分かるのかと驚いて話しかけて来たので、もちろんでございます、なにゆえそのようにお尋ねですかと答えた。
喜んだ長福丸は、それなら次は、そなたが将棋の相手をせよと言った。それで兵庫は、畏まりましたと頭を下げた。
「それは……、まことにございましょうか」
忠相は思わず息を呑んでいた。十五やそこらの少年が、咄嗟にそんな筋の通った嘘をつけるものだろうか。
いやはや、と能登守は自らの首筋に手を当てた。
「御城の広間におったのじゃ。私だとて小童の一人や二人、竦ませるほどの威容は持ち合わせておるであろう。それを兵庫は、口ごもりもせずに滔々と申しおった」
能登守にも、とてもでまかせとは思えなかった。
「そればかりではない。長福丸様は私の名を、起請文がわりに教えてゆかれたのじゃ」
「起請文がわり、とは」
能登守は困じ果てた顔をして、己の鼻に人差し指をさした。
「此奴は松平能登守乗賢と申し、去年の三月から若年寄を務めておる。美濃国岩村藩二万石の主じゃ」
長福丸がこの通り、少年に告げていったのだという。
「越前。そなた、私の在所はともかく、石高など知っておるか。いや、そのほうならば存じておっても不思議はない。だが御目見得がどうにか叶ったという旗本の小倅ごときが、つらつらと私が若年寄に任じられた月まで申しおったのだぞ」
たかだか数百石の旗本の子が、その日の奏者番の名を言い当てたというだけでもあり得ない。
だがこのやりとりが真実ならば、その場でこれだけの策を与えた長福丸は、とても十四とは思えない。いっぽうの兵庫にしても、あの江戸城の広間で命じられた通りに即座に繰り返すとは並のことではない。
「どうだ、謀りごとの類とは思えまい。だが、となれば、どうなる」
忠相は応えるどころか、うなずくこともできなかった。たぶん忠相の持った恐れは能登守と同じだろう。
長福丸の言葉には幕閣の誰一人、老中でさえ逆らうことはできないのだ。それがある日を境に、兵庫の言葉に取って代わらぬと言い切れるだろうか。兵庫が長福丸の言葉だと偽って、己を利する言葉を吐くようにならないだろうか。
それなら兵庫がわずかばかり利口だということは、むしろ悪を企む危うさのほうが大きい。
忠相も声を潜めた。
「はじめのうちは当人も一心に務めましょう。ですがいつ悪いほうへ化けるとも限りませぬな」
「左様。初手から悪事をなすつもりの童などおらぬであろう。して、その懸命に務めておる間に、長福丸様に格別に御目をかけていただくことになれば、何が起こる」
能登守の不安は察するに余りあった。
元来、将軍の子には大勢の小姓がつき、その中から性質も能力も抽んでた者たちが側近に選ばれ、競い合って幕閣に残っていく。だが廃嫡だといわれている長福丸にはまだ誰も近しい小姓がおらず、その中へ突然、自在に話のできる者が一人だけ現れるのだ。
兵庫ははじめから唯一無二の寵臣になると決まっているようなものだ。しかもそれは兵庫自身の能力にも心映えにもよらぬ、ただ耳が良いという取柄だけのためだ。
「あの気短な長福丸様のことだ。面倒がって、その者に好きに話をさせなさるかもしれぬ」
長福丸はさぞ嬉しいだろう。なにせ生まれてこのかた不便をしてきた、なかった口を手に入れるのだ。兵庫を気に入らぬわけがない。
「それにしても、長福丸様がご聡明にあそばしたことは確からしゅうございますが」
これまで長福丸は、きちんと人の話を理解できているのかも分からなかった。だが実は他人と会話することができ、奏者番の来歴まで頭に入っていた。その場でふたたび兵庫と会える手まで打っていったのは見事なものだ。
「応よ。これで上様も一安心であろう」
実際は、そう明らかになればなったで厄介は増すのかもしれない。長福丸には将来の側近になるべき臣下がいない一方で、弟の小次郎丸には、すでに次の将軍と期待をかけて奉公に励んでいる小姓たちが大勢いる。
そんななか兵庫が長福丸の小姓になれば、事はどう動くのだろう。ただの藩主の子などと違って、長福丸の場合は暮らし易くなるというだけでは済まないのではないか。
「その者、奥でのみ御口代わりを果たせばよいというものでもない。今でも長福丸様は表へ出られることもある」
長福丸は元服すれば諸侯の前に出なければならなくなる。黙って座っていられるのも今だけである。
「越前には兵庫の人となり、とくと見定めてきてもらいたい」
「ですが、歳は十六とか。ただでも見極めが難しい年頃でございます」
「そうとも。その時分の己を思い出せばよう分かる。私など、大人を平気で謀って、裏でほくそ笑んでおったわ」
互いに肩をすくめて笑った。若年寄にまで昇るような能登守は、さぞ頭でっかちのこましゃくれた少年だったことだろう。
結局はその時分の己を尺に測るしかない。忠相も町奉行などといって大上段で人を裁いているが、どこまで真実を見抜くことができているか知れたものではない。
「いかに同族といえど、越前ならば目が眩むこともあるまい。小姓に相応しゅうないと思えば、御城へ上げるような真似はしてくれるな。我らもそれは信じている」
老中の乗邑は、兵庫が忠相の遠縁にあたるのも東照神君の計らいだろうと言ったという。
将軍家の長子相続を堅く定めていったのは家康だ。だがそれでも三代家光は自ら同母弟を自刃させ、そのぶん家康の血統は数を減らしている。
「長福丸様がただの大名の子であれば、どのような者だろうと取り立ててやるのだがな」
この世に身体の悪い者はごまんといる。だが長福丸ばかりはあの不如意な身で、幾百と並ぶ諸侯に、佇まいから勢威を示さなければならない。
その重圧が、三十という若さで幕閣に連なる能登守には分かるのかもしれない。だが長福丸は元服すれば、そんな重臣たちにも指図をしなければならなくなる。
もしも長福丸が聡明な生まれつきで、己の立場が分かっているとするならば。もしもそうなら、長福丸はこれまでたった一人でどれほどの不安と闘ってきたのだろう。
夕闇の辻に能登守の駕籠が消えると、忠相は空にそびえ建つ江戸城を見上げた。
あの巨大な城の中で、物も言えぬ少年は一人でもがいているのだろうか。
日の長い町には、まだ振り売りの声が小さく聞こえていた。