九代将軍になるのは兄・長福丸か、弟・小次郎丸か
真っ先にうなずいたのは乗邑だった。若君とは将軍継嗣の称で、本来とうに長福丸はそう呼ばれてしかるべきだが、ずっと幼名のままだった。
「しかしなあ。今は性質が良いかもしれんが、先々どう変わるか分からんぞ。そのときはどうする」
軽口めかしていたが、吉宗は一面、我が子に対してさえも冷徹だ。というより、吉宗にとっては二男の小次郎丸も、同じように可愛い我が子というだけのことかもしれない。
小次郎丸が先に生まれていれば、きっと吉宗は世継ぎには何の悩みもなかっただろう。小次郎丸の小姓のなかには、歳からして長福丸に付くはずのところを、あえて小次郎丸にと願い出た者もある。
監物の目配せを受けて乗邑が口を開いた。
「その者が増長すれば、追い払えばよいだけのことでございます。少なくともあと二、三十年は上様の御代が続きましょうゆえ」
乗邑はいつも軽妙に相手を喜ばせる。
いっぽうの監物は重苦しく正論を唱えた。
「小次郎丸様を継嗣となされば、その次の将軍は、どちら様の御子か」
だからつい吉宗もむっとする。
小次郎丸が九代将軍になれば、十代は小次郎丸の子になるのか、長福丸の子か。
長子相続の定めからいえば長福丸の子に戻すことになるが、成長した小次郎丸が、そうはさせぬのが世の常だ。兄の代わりに将軍に就いた五代綱吉が、その兄の子を差し置いて自らの子を世継ぎに据えていたのが近い例だ。
それより前にも、幕府は二代秀忠の兄、結城秀康の処遇に後々まで苦慮していた。だからもしも長福丸を廃嫡にすれば、そんな難題まで起こることになる。
「綱吉様の御時には当の兄君様がすでにおかくれでございましたが、生きておわしながらも将軍となられなかった方の御子となれば、やはり軽んじられるのではござりませぬかな」
現将軍の子と、将軍になるはずだった嫡男の子だ。
「そこまで余に慮れと申すか」
「申すまでもございませぬ」
吉宗はふざけ半分、愕然として見せた。
「だがなあ。そもそも、あの長福丸に子ができるかな」
半身に麻痺があり、尿を堪えることもできないのだ。
老中二人は子供でも慈しむような目で吉宗を見た。
「我ら老中がこのように上様と直々に話が叶いますのも、先代様の時分には到底望めぬことでした。老中などというものは、じかに上様に言上できましてこそ務まる御役にございます」
五代綱吉が側用人制を置いたために、当時の老中はそれを介してしか将軍と話すことができなくなった。続く六代家宣は元は甲府藩主だったから甲府時代の側用人を重用し、七代家継は幼君で、幕政は何も改められなかった。側用人が廃されたのは、八代に吉宗が就いてようやくだったのだ。
「側用人など、二度と置かれてはなりませぬ。大権現様が老中の制を定められたのは、権臣が幕政を私せぬためでございます。諸事、権現様お定めの通り」
乗邑が家康の名を出したので、皆がそれぞれに頭を下げた。
もしも長福丸が将軍になり、奥に籠もったきりで兵庫がその言葉を伝えるようになれば、それはそのまま側用人制の復活だった。老中は将軍を補佐するどころか、将軍に考えを伝えることもできない。監物や乗邑が最も恐れているのは、つい八年前まで目の前で行われていた、幕閣をないがしろにする政だ。
吉宗はそれを外から五代、六代、七代と眺めて、将軍に就くやいなや側用人制を廃止した。そして紀州から宗家へ入るときも、紀州の家臣はほとんど連れて来なかった。だから紀州はそのまま御三家として残り、自らは家康の時分の将軍家を再興することに一から力を注いだ。
だというのに次代で側用人が復活することは、他でもない吉宗自身が絶対に阻止するだろう。いやいっそ、その恐れのある兵庫など、長福丸ごと引き抜いてしまうかもしれない。
とはいえ忠相のような町奉行ごときには、本来耳にすることも許されない雲の上の話だ。だから忠相はさっきからこの座敷の居心地が悪くてたまらない。
兵庫というのは幼いときから口数が少なかったという。侍の子らしからぬ、草花や鳥や虫といれば一日でもじっとしている大人しい少年だったと、忠相はその二親から聞いている。
そんな兵庫が、いつか側用人として傍若無人に振る舞う日など来るのだろうか。一人の身体の悪い少年の通詞になり、穏やかに庭先の鳥を愛でるような暮らしは、あの二人には許されていないのだろうか。
だが兵庫の眼前にぶら下げられた力や富は、どんなにか強い芳香を放っているものなのだろう。それを嗅げば、ひょっとしたら忠相でも変わってしまうのかもしれない。
「とりあえずは若君にしてみるか」
吉宗の声で、忠相は我に返った。
「さて。長福丸の話はここまでじゃ。前月に定めた足高と役料の増補、不備はなかったかの」
吉宗が身を乗り出すと、乗邑は即と禄高の一覧を取り出した。その瞬間、監物よりも乗邑が座敷の中心になったように思えた。
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