長福丸の乳母・滝乃井の涙の理由は…
「殿方はすぐに立身だの、取り入るだのと仰せになるが、親身に長福丸様のお苦しみを慮ったことなどないであろう。やんごとない将軍継嗣のお生まれにも拘らず、未だにお立場もはっきりせず、日々どれほど侮られておられることか。長福丸様は白湯一杯、好きにお飲みになることができぬ。何一つ、御自らお命じになることがおできにならぬ。それもこれも、我らが長福丸様のお言葉を解して差し上げられぬゆえではないか」
「滝乃井殿……」
「頼みの母君様にも幼いうちに先立たれました。ですがお須磨の方様は、母ゆえに長福丸様のお言葉が分かると仰せであった」
長福丸は誕生のとき、臍の緒が首に巻きついたせいで麻痺が残ったといわれている。だから生母お須磨の方は、長く己を責め続けたという。
「乳母の妾が聞き取って差し上げられぬばかりにお苦しめしたのです。それを聞き取る者が現れたのじゃ、兵庫になにか不始末があれば、妾はともに自害する覚悟です」
滝乃井はまだ眉を吊り上げている。
だが将軍の嫡男の小姓は、順当にいけば次の将軍の御世に、老中のような重臣になるのである。
とはいえ長福丸はすでに廃嫡とも囁かれている。四つ下の弟、小次郎丸が格別に利発でもあり、周囲の多くは小次郎丸が次の将軍だと考えている。諸侯が列座する大書院間や老中を差配せねばならない評定で、口をきくことができなければ将軍はとても務まらないからだ。
「それで、その者は真実、長福丸様のお言葉を解しておるのでしょうか」
「ああ、それは間違いない」
滝乃井はいとも易々と断言した。
「もしや越前殿まで、次の将軍たる長福丸様のおそばには、なまじな者は置かせられぬとお考えであろうか。だが、それはなりませぬ。日々のお煩いを軽くして差し上げる、それこそが我ら臣下の真っ先に考えねばならぬことじゃ」
忠相は内心、ため息を隠していた。
そんなことは乳母だから言えるのだ。ほんの数十年前、五代綱吉が側用人制を創ってから、江戸城では老中ですら将軍となかなか話すことができなくなった。そのまま六代、七代と続いたその歪みを正すために、吉宗は幕政を改革してきたのだ。
口のきけぬ将軍に、一人だけ言葉の分かる小姓が侍る。これはまさしく老中さえも遠ざけた側用人制の復活だ。
「兵庫と申しましたか。歳はいくつでございます」
「長福丸様より二つ年嵩。当年十六だそうな」
忠相は黙って考えた。三百石取りの旗本の子なら、長福丸に拝謁できただけでもよほどの幸運だったはずだ。大概はもう二度と登城することもなく、縁続きの忠相でさえ、平素はつきあいもしない。
「十六にもなっておるならば、性質を矯めることもなかなか難しゅうございましょう。なにより地の頭が悪ければ、今さら何を教え諭したところで無駄でございます」
「ご聡明の上に情け深いと謳われる越前殿の、他ならぬ血縁の者ではないか。なんとかしてくださいませ。長福丸様のお言葉を解すとなると、余人には代わりがきかぬ」
「御世継ぎ様の小姓など、なまなかな者には務まりませぬ。およそ小者にかぎって大それた念を抱くのは、古来より数多、例のあることでございます。しかも十六といえば生意気の盛り。言い聞かせて悟るものとも思えませぬ」
「いざとなれば、妾が刺し違える」
「滝乃井殿。下手をすればこちらが騙されると申しておるのです」
何かしでかしたときは、滝乃井ばかりでなく忠相が切腹しても収まらぬかもしれない。
「どうか兵庫に、御城へ上がる心得をとくと説いてやってくださいませ」
滝乃井は手を合わせて拝んでいる。
だが滝乃井が長福丸のことのみ考えているように、忠相にもどうしてもやり遂げたいことがある。
忠相をここまで引き立ててくれた吉宗はまだ四十一という若さで、上米、足高、参勤の緩和と、矢継ぎ早に旧来の政を改めてきた。振り出しは少禄の旗本に生まれた忠相にとって、吉宗はかけがえのない主君なのだ。まだこれから手足となって働きたい矢先に、顔も見たことのない遠縁の少年に連座して失脚するなど、冗談ではない。
正直、一切関わりたくない。忠相のような町奉行ごときに、江戸城の奥のことなど想像のつくはずがない。滝乃井にどんな顔をされようと、御免なものは御免だ。
「せっかくながら、滝乃井殿のお言葉に従うわけにはまいりませぬ。それがしはその者に会えば、きつく登城を止めるかもしれませぬ」
いや、きっとそうする。十六やそこらで小賢しい。浅はかな立身など夢想して、家名断絶が関の山だ。
「いいえ、それはなりませぬ。二つ三つの不足には、妾は目を瞑ります」
だから滝乃井が堪えて済むという話ではない。大奥の女中が刺し違えるのは勝手だが、忠相にはこの先やりたいことが山とある。
だがふと閃いた。逆にこれほど滝乃井が熱望しているなら、止められるのは忠相だけかもしれない。ならば、会ってみるのも悪くはない。
「やれやれ、承知いたしました。大岡兵庫とやら、それがしも何やら会うてみとうなってまいりましたぞ」
「さすがは越前殿。引き受けてくださるか」
忠相は弱々しく笑みを浮かべた。引き受けるもなにも、兵庫が小姓に抜擢されてしまえば、不手際の際は忠相まで責めを負わされかねぬのだ。
滝乃井には悪いが、兵庫のことは諦めてもらう。
ただ確かに忠相は、どんな少年か見てみたいとも思った。
「ああ、安堵いたしましたぞ、越前殿。だいたいが皆、長福丸様を侮りおって。越前殿はご存知あるまいが、口がおききになれぬゆえ廃嫡だ、なぞと申す声もあるのですよ。愚かな。上様の御世継ぎ様は長福丸様に決まっておろうが」
忠相は滝乃井が少し不憫になってきた。本気で長福丸が将軍になれると考えているのは、この滝乃井だけではないのだろうか。
だが生憎と忠相は、滝乃井よりずっと人が悪い。奉行など、善人面の奥の邪曲が見えてこそ務まる御役だ。
己が火の粉を被りたくなければ離れるしかない。それができぬなら、燃え上がらぬうちにさっさと土をかけて埋めてしまう。
とにかく厄介には巻き込まれぬことだ。
城を出るとき、改めてそう思いながら忠相は御城を見上げた。