世界中の女性たちの共感を呼んだ「気にしない」
さて話を「アナ雪」に戻せば、主題歌英語版「Let It Go」の語は、欠点や問題があっても気にせず受け入れるという意味合いが強い。それはこの「隠さねばならない能力」に対して、周囲の評価を「気にしない」という主体的選択のように思う。おそらくはこの点が、世界中で女性たちの共感を呼んだのだろう。公的な場でも私的な場でも、いつもどこかで何かの能力を隠さねば生きられない点は、今なお世界中の女子たちの足枷になっているのだろう。
自己の能力を主体的に(当初は少々間違った路線であったとはいえ)受容したエルサに対し、少々気の毒なのはアナである。何しろいきなり孤立化、しかもその原因でありつつ記憶はない……。プリンセス・エスコート・ストーリーに憧れる、ちょっとドジッ娘なお転婆妹キャラというのは、旧来の「シンデレラ」(1950)や「眠れる森の美女」(1959)などと比べて、ずっと活発で今どきガール、なのだが……彼女の最大の特性は、相手役と目された王子様がアレだったということだろうか。
ハンス王子は、本当につかみどころがない。映画は吹き替え版・英語版両方見て、個人的にアナ雪のパズルゲームまでやってみてハンス王子を観察したのだが、本当にいい人に見える。もちろん、クリストフもいい人に見えるのだが、見かけいい人具合が釣り合っているので、急速な裏切りに唐突感がある。もしかしたら、映画スタッフがいろいろ切羽詰まって時間切れになって、ビロードのカーテンの陰に鎮座しているミッ〇ー総督からかん高い声でせっつかれ、思い余って「ソードマスターヤマト」(*1)になってしまったのかしら……とはらはらしたが、どうやらそうではないらしい。
思うに、ハンス王子は、今までディズニー映画が半世紀以上かけて作り上げてきた、女子の欲望の写し絵ではないのだろうか。彼はおそらく、プリンセス・エスコート・ストーリーにうっとりする女子たちの欲望を具現化した「超・王子様」である。もちろん、それも計算のうち、あるいは天性の詐欺師というご指摘もあるだろう。だが、ハンスを見ていると、他者の欲望の写し絵としての自分を完璧に演じているうえ、そこに葛藤のようなものが見られないのだ。隠している欲望があるならば、主体的な欲望と偽りの自己との間で生じる軋轢や矛盾が描写されるはずだが、それがない。それゆえ、正直言っていい人にも悪い人にも見えない。本当に奇妙なキャラである。この点が、エルサが抑圧から能動へと転じたことと好対照を描いている。
あえて言えば、ハンスはアナの(そして全世界のお姫様ワナビーな女子たちの)欲望を忠実に具現化しようという使命を帯びていたのではないのか。何しろ、完璧な王子としては、彼は不足である。王位継承権は13番目(ユダ番号なのが恣意的だが)で、王位継承権はない。王子様から王様へとジョブチェンジして「完全態」になるには、結婚で逆玉の輿に乗るか、あるいは国を乗っ取るしかない。そう。ハンスの「裏切り」とは、完全な王子様を求める女性たちの欲望に「素直」に反応した結果だったのだ……とは、少々穿った見方であろうか。
これに対し、クリストフは一見ぼんやりしたキャラだが、文字通り地に足が、もとい氷の大地に根を張った人物である。他人の評価よりも自然を愛し、エルサの能力についても、その凄さを素直に賞賛する。トロールに育てられ、トナカイの心が分かる自然児。社会的地位や財産には興味がない……というか、むしろいっさい持たないがゆえに、何もかもを受容できる人物として描かれている点が示唆に富む。
*1 解説を書いてみましたが、説明を読んでもあまり面白くないのでやめました。もしご存じない方は、ぜひ増田こうすけ劇場『ギャグマンガ日和』でググっていただけないでしょうか……。
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ヒビコレセーフ! ヒビコレアウト?
それっていいの? 正しい? 幸せになれる? 大丈夫―――!? どう判断していいのかわからない、日本の難問、日々の課題。気鋭の社会学者が予断を排してわけいります!