話せるのは結果的に経験に裏打ちされたことだけ
小林 8000メートル級の山を14座登るって、僕にはそもそも不可能というか想像すらつきません。きっと僕は4000メートルくらいまでしか行けないと思います。北アルプスの3000何メートルで頭が痛くなってきたので。自分の手の及ばない、知らないことを体験した方にお話を訊かせてもらうみたいな感じでした。
竹内 小林さんはどこかに自分と私が同類だと思っている節がある気がしました(笑)。この本は、書き手と書かれる対象が近いような距離感がこれまでとは違っていて、読んでいて心地よかった。それゆえに、もしかすると、あえて訊かなかったこともたくさんあるんじゃないですか?
小林 いや……、それはないです。僕は竹内さんの前で山をやっているとは言えないくらいに趣味でやっている程度ですけど、昔から海外にふらふらと旅行に行っていたことと、登山を趣味でやっていることは同じ感覚なんです。20歳の頃に山に登っていて、海外に行くようになったらそっちが断然おもしろくなってという感じなので。それを「なぜ」と訊かれても「好き」としか言えなくて、きっと竹内さんが山に登られているのも、同じように言葉では明確に説明のつかない「好き」ということなのかなと。
竹内 そうかもしれません。
小林 竹内さんと初対面のとき、ふだんのような感じで黒子になって、じゃまにならないように撮っていると、山を登っていない人、山に興味がない人にも突き刺さるようなことを、ピッと経験に裏打ちされた言葉にされる感じがすごくて、引き込まれました。
竹内 私は自分で経験してきたことしかお話しすることがないので、そこに推測や人から聞いてきた話が入らない分、話しやすいんです。現場ではすごく悩むときもありますし、曖昧なままで進んでいかないといけないこともあるので、なかなかそう単純には言えませんが、結果的に自分が経験したことだけを話しますから、的確な風に聞こえるんだと思います。8000メートル級や14座の登山というのはあまりやっている人がないから目立っているだけで、それに匹敵するようなものは誰もが持っているんだと思います。
小林 いや、あんまりない気が(笑)。竹内さんだからこそという気がします。
竹内 あると思いますよ。ただ、登山の場合は、プロとしての選手生命と自分自身の身体生命が近いので、たとえば山中で事故に遭ったりして、選手生命が絶たれたときに身体生命も絶たれるということになる。でもそれは、絵が描けなくなった画家の芸術家生命が絶たれることと何ら変わらない気がします。芸術家の場合は、創作生命とその人の身体生命がかけ離れているがゆえに苦悩して、中にはみずから身体生命を絶ってしまう人もいる。そういう意味では、選手生命と身体生命が近い登山家は、逆に恵まれているのかもしれません。
次のページ:靴が汚れない竹内さんがすごい