今から70年前、百万人にものぼると言われる日本人が、敗戦によって「難民」となり、中国大陸や朝鮮半島などで、過酷な生活を強いられました。その日本人難民をテーマにしたノンフィクション『満洲難民~三八度線に阻まれた命 』(井上卓弥著)が刊行されました。
本連載では、若い世代の方にはなかなか分かりにくい、終戦前後の日本をとりまく情勢の解説などもまじえながら、本の読みどころを5回にわたってご紹介します。
飢えや寒さ、伝染病の蔓延によって、朝鮮北部・郭山(かくさん)疎開隊では毎日のように子どもや母親が死んでいきました。そもそもなぜ彼らは、郭山に足止めされ、すぐに日本に帰ってくることができなかったのでしょうか?
* * *
満洲在住の民間人(軍人・軍属とその家族以外の人々)の本国帰還について、何よりも日本政府の態度がきわめて冷淡だった。日本政府は終戦直前の八月十四日、大東亜大臣東郷茂徳の名で訓令「居留民の現地定着方針」の暗号電文をまとめ、満洲の在新京大使館や領事館をはじめ、中国や東南アジアの在外公館にあてて打電していた。その理由として「本土の空襲による食糧や住宅の不足」「船舶数や港湾の不足」などが挙げられた。端的に言うなら、敗戦を目前にした日本政府はまず、外地にいる民間人をあっさりと見捨てたのだった。
朝鮮半島に残された日本人は、米ソ対立という国際情勢にも翻弄されます。日本の降伏によってその支配を離れた朝鮮半島は、米ソの取り決めにより、北緯38度線より北はソ連軍に、南はアメリカ軍に占領されます。アメリカ軍が、終戦直後から日本人の本国帰還に協力的だったのに対し、ソ連軍は、「いずれ正式に日本に帰還させる」と言ったまま、日本人の移動を禁止し、厳しい監視下におきました。
満洲からの脱出の際、38度線を越えられたかどうかで、日本人難民の運命は大きく分かれることになったのです。
そして38度線以北、郭山疎開隊の人々は、ついにソ連軍の監視をかいくぐり、自力で南部へ脱出することを決意します。
六月に入ったら、三つの班を一日おきに出発させることが申し合わせられたものの、懸案事項はいくつも残されていた。疎開隊として一カ所にまとまっている間、ソ連兵による婦女暴行などの被害は最小限にとどまっていた。しかし、人目につかないように山道や間道をバラバラに移動するとなると話は違ってくる。決行の日取りはなお流動的だったが、若い女性たちは髪を切って男装すべきかどうかで頭を悩ませた。前年の秋から初冬にかけて、乞食同然の姿で三々五々、街道を歩いて南下していった坊主頭の女性たちの姿が目に焼き付いていた。
平安北道(へいあんほくどう)の郭山から三八度線までのルートは平安南道(へいあんなんどう)の中心都市、平壌(へいじょう)を経由して黄海道(こうかいどう)に入ることになる。実際にたどる道のりは三〇〇キロ近くになりそうだった。
移動禁止令をかいくぐり、それとなく列車に乗り込むことに成功したら、平壌を素通りして一気に約一〇〇キロ南の黄海道の町、新幕(しんまく)を目指す。ここから先、開城(かいじょう)を経て京城(けいじょう)へと続く京義線(けいぎせん)は利用できない可能性が高かった。その先の行程に備えるため、新幕周辺の事情にも明るい居留民二人を「先行隊」として派遣し、移動に使うトラックや牛車の手配を済ませたうえで待機してもらうことにした。
新幕から開城に向かって南下する途中の金川までは四〇キロほどある。ここまでトラックで速やかに移動することができたら、そこから先は体調不良者や老人を牛車に乗せ、いよいよ山間部に分け入る予定だった。
とにかく人目につく街道はなるべく避けながら、山あいの間道をひたすら歩かねばならない。開城の米軍キャンプにたどりつくことができれば、難民として保護してもらえるはずだが、朝鮮半島を横切る三八度線を具体的にどの地点で越えるのかも含め、肝腎のところは成り行きまかせだった。越境の最終段階では、まったくの手さぐり状態になることも十分に予想された。