◆日本の報道写真はなぜつまらないのか?
青木 前から亜利君に聞きたかったんだけど、日本の報道写真ってつまらないでしょ? わかりやすく伝えるために、たとえば、県民大会の写真は大会の全景がわかるような撮り方をする。わかりやすくはあるけれど、面白くない。心に刺さらない。でも亜利君の写真は少し違う。誤解を恐れずにいえば、3万5000人の県民大会の写真も、すごく美しい。亜利君は日本の報道写真をどう見てるの?
初沢 この1枚についてはとても説明しやすい。県内外からのカメラマンは20人近くはいたかな。この瞬間は5秒くらいしかなかったのですが、他のカメラマンは例外なくワイドレンズで撮っていた。おそらく僕だけが望遠レンズを使ったのではないかと思います。手前の数人をボカしつつ観客席の一部分だけを切り取りました。そのことによって一人一人の顔が見えるわけです。はたしてどちらの方が見るものに訴えかける力をもつか?
カメラマンを志す大学生や専門学校生は、最初は誰もが気持ちがおもむくままに撮っているはずです。自己表現を貫きたいと思っている。でも新聞社や通信社に入ると、それではダメだ、まず情報ありきだという教育を受ける。それで給料をもらっている以上、その要求に自分の感性を合わせていくしかないんじゃないんですか?
青木 福島原発の事故のときの、たしかAP(AP通信社。世界的通信網を持つアメリカの大手通信社)の写真だったと思うんだけど、第一原発近くの砂浜を撮った写真があって、遠くにある原発建屋に向かって足跡がポツ、ポツっと連なっている情景を地べたから思いっきりあおって撮っていたんだ。ものすごく印象的な写真だったけど、報道写真とすれば、何がいいたいのか判然としない。逆にいえば、いろいろな解釈が可能で、なんだか詩的な写真だった。
しばらく見つめ、原発と福島についていろいろ考えさせられたのは、写真の力だよね。僕は共同通信にいたけれど、こんな写真は日本の新聞は通常掲載しない。共同通信から配信されることもない。
初沢 東日本大震災のとき、震災の翌日から宮城県名取市に入ったんです。津波で何もかもが流され、道もないような状態でした。あまりに衝撃的な現場を前にして、僕はしばらく、カメラを肩に下げたまま、何に対しても反応することすらできなかった。というより、最初は生存者を捜すことに忙しかった。誰もがおそらくそうしたのではないか。その中で少しずつ、自分にとって腑に落ちるペースで、徐々に撮っていくようになりました。
僕は誰かに頼まれて撮影に行ったわけではないですから、自由である代わりに別な意味でシャッターを切ることへの責任も問われます(このときの写真は『True Feelings―爪痕の真情―』〈三栄書房〉に収録)。出会うたびに遺体の写真も撮りました。
でも、同じ現場にいた新聞社のカメラマンたちは、「誰が一面を飾るか」を競って撮りまくっていた。遺体は載せられないから撮ってないはずです。一面を飾れるのは、青木さんがおっしゃるように、わかりやすく伝える、そしてちょっと情緒的な写真です。持ち主を亡くしたランドセルのような。だから、がれきの中にそういうものを探していくわけです。とにかく使ってもらえるラインを狙って、悲惨でちょっと情緒的なものを撮っていくんですよ。
僕は情報ありき、というよりも、そのときに感じたままに、あるいはどう感じていいか分からない、という感情のままに、シャッターを切っていた。撮った写真とはその後時間をかけて向かい合うことができます。その上で世に出すか出さないかをじっくりと判断することもできます。
青木 日本の新聞社の記者やカメラマンは、「報道写真」という既成のパターンの中に写真を落とし込んでいく。そうすると、どうしても写真としては面白くなくなるということだよね。
初沢 僕はそう思います。
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