祖父は寿司屋の大将であった。寿司屋といっても白木のカウンターがあって、清潔な三和土の上に行儀のいい椅子がならんでいるなんてのを想像してはいけない。全席テーブルで、うどんもあれば中華そばもあり、オムライスも出せば、焼肉定食も出す。客といえば近所の人達であり、駅近くという立地から電車を待つ間に通勤客がラーメンを啜って行く。いわば「駅前食堂」。看板には「寿司 丼物 うどん そば、麺類一式」とある。関西にはこの種の店が、昔は沢山あった。
子供の頃、この祖父に随分とかわいがられた。なにかあれば「美味しいもん、食いに行こか?」と言う。奈良のそれも吉野という辺鄙な場所にある田舎の駅前食堂といえども、高度成長期の波に乗ってそれなりの財もこしらえている。今から思えば金満家であった。年端もいかない我々孫たちを、大阪や京都の名だたる名店にどしどし連れて行く。当時の私はまだ10歳やそこら。「大人の世界」に連れて行ってもかろうじて「アクセサリー」として成立する。これがもう少し大きくなると生臭くて連れて行けないということもあったろう。
とにかく、10歳前後の頃は、10日に一度は、祖父に連れられて「何でも食え。食いたいもん頼め」の日がやってくるという日々が続いた。舌が驕(おご)ってしまったのはそのせいだと今になって変に恨んだりするのだが、バブルとその崩壊で汚くなる前の大阪や京都を垣間見れたのは、この世代の人間として幸せだったのかもしれない。
当時は祖父のこうした行為を「僕たちのことがかわいいからこうしてくれているのだ」と素直に考え、つけあがっていた。
しかし中学にあがる頃になると、それなりに論理的な思考も身につく。他人を観察する癖も生まれている。祖父を観察していると、どうも「かわいいから」だけではないことがわかってきた。目が鋭すぎるのである。それに終始黙っている。箸やナイフフォークの上げ下ろしさえどこか物憂げだ。
「なにを今頃言うてるの? あれ、あんたらかわいいであっちこっち連れ回してると思うてたんか?」。祖父の様子について尋ねると、母は高笑いして答えた。「あの人はな、あないして勉強してはるのよ。勉強で金つこうてはるの。自分一人で行ったら、頼む量が少ないやろ? 仰山で行ったら、仰山頼める。それだけ勉強できる。それで連れて行ってはるだけの話。勘違いしたらあかん」
なるほど。そういうことだったのか。
「あの人にとっては、食べもんのことは、仕事。そやから必死やねん。怖いかもしれんけど、堪忍したってや」と、祖母が母の言葉をついだ。
そのとき初めて、祖父が歩兵38連隊所属で、上海派遣軍の一員として、昭和12年の南京攻略戦に参加していたことを知った。
「南京でなにがあったか、私かて聞いてない。聞いても教えてくれはらへんやろうしね。そやけど、食べ物商売をしようと決めたのは南京やとは言うてた。南京で、『どんなことあっても食べ物には手を出す兵隊と現地人』を見て、『帰ったら、食堂やろう』と決めたて言うてたわ」
従軍体験を積極的に教えてくれる父方の祖父とは違い、寿司屋であるこの母方の祖父が戦争の話を一切しない理由もこのときにわかった。
祖父は南京でなにかを見たのだ。だから酒を飲まないあの祖父が、戦友会の帰りだけは酔態を晒(さら)すのだ。いつもは祖母を連れて海外旅行するのに、中国だけは一人で行くのもそのせいだ。
なにを見たのか、なにが行われたのか、そして祖父はそれに加担したのか。その後、祖父に連れられてどこかへ行くたび、そればかりが気になった。
そうこうするうちに、祖父は病を得た。本人には告知されていなかったが、癌であった。商売を息子に譲り、悠々自適の療養生活が始まる。我々孫を連れて外食の頻度はさらに上がる。そんなある日、突然、「みなに内緒で二人で大阪に行こか」と、言い出した。
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