最近、大阪で仕事をする機会が増えた。大阪といっても今の現場は、淀川以北。道頓堀は遠い。しかし、すっかり変わり果てた大阪に疲れると足は自然と「はり重」に向かう。はり重だけは、あの頃から何一つ変わっていない。
あのとき食べたテキを頼む。あのときと変わらないテキが運ばれてくる。大人になって 麤皮のステーキも食べた、昨今の熟成肉ブームに乗ってあちこちのステーキも食べ歩いた。しかしやはり、祖父との思い出を差し引いても、「はり重のテキ」こそが一番美味いように思う。なにか根源的なところで、獣臭さといい、甘さといい、コクといい、舌触りといい、余所(よそ)のステーキとは別次元の世界がある。そして最近、この味が祖父の言う「明るい食べ物」なのだとようやく気づいた。食べた後、希望が広がる味なのだ。
祖父は、南京でなにかを見た。見る前に豚まんを食べた。そして戦後10年たって「はり重のテキ」を食べるまで、その味を引きずり続けていた。いや、最後の最後まで「食べ物の勉強」をし続けた彼は、死ぬまで南京の豚まんを引きずっていたのかもしれない。だから私に豚まんを買わず、最後に「はり重のテキ」を食べさせたのだろう。この「明るさ」を伝えるために。
70年代後半に生まれた私の世代は、おそらく、従軍経験者を祖父にもつ最後の世代だろう。戦争の加害で心を壊してしまった人を自分の家族にもつ経験があるのも、我々の世代が最後に違いない。
あの世代から我々はなにかを託された。我々に何事かを託して祖父の世代はこの世から消えた。託されたものがあるならば、我々もそれを次の世代に託していくしかない。
その努力が実るかどうかはわからない。なにせ託されたのは自分の実体験ではないものばかりだ。それに抽象的であり、かつ曖昧でさえある。この「なんとも言えない記憶」を次の世代に繋げるのは、難事業になるだろう。
いっそこんな努力、やめてしまって、関東大震災での朝鮮人虐殺をなかったことにする小池百合子のように、歴史に向き合わない愚劣で酷薄な人間になってしまえば楽なのかもしれない。
だが私は、その努力をやめたくはないのだ。
祖父は南京でなにを見たのかを語らずに逝った。しかし、最後に「はり重」を出るとき「忘れたら、あかん。忘れたら、あかん。」と、二度言ったのは、確かだ。
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