近鉄電車にゆられ、難波へ。心斎橋に向けて歩いて行く。551の蓬莱にさしかかったとき、祖父が「豚まんは、よう売れる。あれは売れる」と突然言い出した。彼がこんな批評めいたことを言うのは珍しい。
「南京でもな、最後の最後まで、豚まんは売ってた。俺らも買うた。向こうは向こうで命がけで売ってた。売って食べて、食べて売ったんや」
最後の「うったんや」はあくまでも「売ったんや」であると信じたい。とにかく彼は確かにそう言った。そして、決然として「豚まんは、買わへんで」と言い、歩きだした。
こうなると聞きたいことが余計に聞きたくなるが、かえって聞けない。そんな私を見かねたのだろう。
「辛気くさいなぁ。テキ、食べよ。元気だせ。テキ食べたら、明るなる」
病人とは思えぬ足取りで突然闊歩しだし、向かったのが、道頓堀南詰、「はり重」である。
「はり重のテキは、美味い」
祖父は大きな声で言う。しかしなんで今さら「はり重」のステーキなのか。これまでも何度も連れてきてくれたではないか。せっかく二人きりなのだからもっと違うところに連れて行って欲しい。そんなことを言いかけたが、ここまで「美味い」と断言する祖父の姿に言葉を飲んだ。
「さあ頼め。テキ頼め。ミディアムレアで頼め」
そのくせ自分は頼まない。いや、もう食べられないのだ。店のなかをぐるぐる見渡し、水だけを飲んで、座っている。店のしつらえを見渡すのは彼のいつもの「勉強」だ。こちらは思春期。ステーキを奢(おご)ってもらう嬉しさよりも、祖父の奇矯さに対する恥ずかしさが勝ってしまう。「そないじろじろ店のなか見回したら、迷惑やん」と思わず口走ってしまった。祖父はなにも言わない。
ステーキが運ばれてきた。いつもと違わない店の、いつもと違わないステーキ。
「美味いやろ。美味いんよ。はり重のテキは。で、明るい。食べ物は、明るなかったらあかん」
祖父の口からこんなに「美味い」という言葉を聞くのは初めてだった。しかし「明るい食べ物」とはどういうことなのか。
「戦争から帰ってきて、金貯めて、店出して、儲かりだして、昭和30年ぐらいやったと思うけども、初めて、はり重のテキ食べたんや。美味しいてな。踊りたなるほど美味かった。そこで初めて、肩の荷がおりた気がした。世の中にこない美味いもんが出回りだしたかと」
今日はよく喋る。好機到来とばかりに、「南京の豚まんは美味かったのか」と聞いてみた。
「美味い。はり重のテキ食べるまで、あれより美味いもんを食うたことがなかった」
うっすら涙を流している。二人しかいないテーブルに気まずい空気が流れる。しかしステーキは食べねばならぬ。黙って食べたステーキは、いつものようにただひたすらに美味かった。そしてこれが祖父との最後の外食となった。
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