2月24日、沖縄県で、辺野古米軍基地建設のための埋め立ての賛否を問う県民投票が実施されます。
今回の県民投票=住民投票をめぐっては「反対が多数を占めても法的拘束力はないので何の意味もない」「県民の分断をあおるだけだ」という声もあります。
そもそも住民投票とは何でしょうか? なぜ必要とされるのでしょうか?
2013年、國分功一郎さんは、自分が住んでいる東京都小平市の都道建設をめぐる住民投票に関わりました。そこでの市民としての実践と、哲学者としての思索をとおして、「住民の声が行政に届かない」という民主主義の欠陥について論じたのが『来るべき民主主義――小平都道328号線と近代政治哲学の諸問題』です。その「はじめに」を公開します。
今回の県民投票を、沖縄県外の人たちも「自分たちの問題」として考えるための一助としていただければ幸いです。(幻冬舎plus編集部)
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議会制民主主義の単純な欠陥
現在の民主主義を見直し、これからの新しい民主主義について考えることが本書の目的である。最終的にはいくつかの具体的な提言が行われる。その根本にある発想は極めて単純である。ここでは、それをできるだけ手短に説明する。時間がなくて本書を通読できない方は、この「はじめに」だけをお読みいただいても構わない。
今から説明するこの発想について、筆者はこれが今後、民主主義を考える上での前提になってほしいと思っている。少なくとも、政治について考える機会をもつ人にとっては常識になってほしい。それほどの強い願いをもって、本書はそれをここに紹介する。それは現在の民主主義、いわゆる議会制民主主義の単純な欠陥に関するものである。
私たちが生きるこの社会の政治制度は「民主主義」と言われている。「民主主義」は「デモクラシー」の翻訳であり、「デモクラシー」は「民衆による支配」を意味するギリシア語の「デモクラチア」に由来する。民主主義とはつまり、民衆が自分たちで自分たちを支配し、統治することを言う。ここから一般に民主主義は、民衆が主権を有し、またこれを行使する政治体制として定義される。
では、その主権はどのように行使されているか?
主権者たる私たちが実際に行っているのは、数年に一度、議会に代議士を送り込むことである。つまり「民主主義」といっても、私たちに許されているのは、概(おおむ)ね、選挙を介して議会に関わることだけである。さて、議会というのは法律を制定する立法府と呼ばれる機関である。すると、現代の民主主義において民衆は、ごくたまに、部分的に、立法権に関わっているだけ、ということになる(*1)。
なぜ主権者が立法権にしか関われない政治制度──しかもその関わりすら数年に一度の部分的なものにすぎない──が、「民主主義」と言われうるのだろうか? それは近代の政治理論、あるいは民主主義の理論に、立法府こそが統治に関わるすべてを決定する最終的な決定機関であるという前提があるからだ。後に詳しく説明するが(第三章参照)、近代の政治理論は主権を立法権として定義している。だから、その関わりがどんなに不十分であれ、とにかく民衆が立法府に何らかの形で関わっていれば、「民主主義」ということになる。
多くの場合、政治に対する批判は、「議会に民意が正確に反映されていない」とか「議会が民意から乖離している」といった仕方でなされる。これは近代政治理論の前提にのっとった批判である。つまり、主権は立法権にあり、主権者は選挙によってその立法権に関わっているわけだが、立法権を担う立法府(議会)に民衆の意思がきちんと届けられていないから、よりいっそう民意の反映が求められる……というわけだ。
この批判は正しい。実際、選挙制度には大いに問題があるし、議会が民意から乖離しているという印象もぬぐいがたい。故に、この正しい批判はこれまでもずっとなされてきたし、今もなされているし、またなされるべきである。
だが、この「正しい」批判の前提に盲点があったらどうだろうか? この前提は近代初期に政治理論家たちによって作り上げられたものだが、そこに欠落があったとしたら? ある欠落を抱えた前提に従って、政治に対する批判が延々と行われてきたのだとしたら? 本書の考えでは、この前提には単純な欠陥がある。しかもそれは誰でも知っている欠陥である。
*1
地方の行政権力の長である市長や県知事も選挙によって選ばれているので、民衆は立法権のみならず、行政権にも一部関わっていると言うことはできる。だが、現行の議会制民主主義の中心は代議士を選挙で選ぶことにある。この「はじめに」では単純化して、話を民衆の立法権への関わりに限定したい。なおこの点は後述する(第四章参照)。
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