●本気で恋愛した相手を忘れるなんて、不可能
――『偽りの森』では恋愛やSEX、夫婦の関係が描かれてはいても、そこに存在しているのは、愛しているはずの男ではなく、嫌っているはずの、家、母、そして自分自身だと感じました。ひいては、自己愛という森に入り込んだ女性たちの物語とも読めると思いますが、それは意識されたでしょうか。
花房 去年の十月に出した『恋地獄』(メディアファクトリー/KADOKAWAは、今、メディアに氾濫している恋愛やセックスの記事に対するアンチテーゼでもありました。
雑誌やネットの記事で提唱されてる恋愛や、セックス記事って、ほとんどが相手不在です。オナニーの延長みたいな恋愛やセックス、他人を利用して承認欲求を満たしたいだけの自己愛じゃないか、自分探しをするために恋愛をしようとしているだけじゃないかというのがずっとあり、疑問でした。
恋愛やセックスの記事が増えたり、官能小説がとりあげられるのって、性的に自由になったのではなくて、オナニストとヤリマンが増えただけのような気がして、どんどんコミュニケーションが遠ざかっていってる気がします。だからこれだけセックス記事が氾濫してても、日本人のセックスレス率は高いし、処女と童貞率も高いわけですよね。
「モテたい」っていうのが、そもそも不特定多数の異性の気を惹きたいということ。そんな「モテ」は、私が思う恋愛とは正反対のところにあります。
恋愛というのは、他に替えがきかないひとりの存在とお互いに深く心も身体も潜ってゆくこと。他人にそこまで深く潜ってしまうと、天国も地獄も両方見てしまわざるをえない。もしかしたらたどり着くところは憎悪かもしれないし、激しく求めることは執着も生み出しますし、深い傷を負うこともあります。けれど、他の人じゃだめ、その人でないといけない、そして離れられない、それぐらいじゃないと、恋愛じゃないと思います。
一度、本気で恋愛した相手のことを忘れてしまうなんて、不可能です。好きで同じ時間を共有して世界を築くことは、お互いが自分の一部となることです。たとえ別れて関係が終わったとしても、自分の一部となったものを切り離すなんてできないし、それを無理やりしようとすると、激しい痛みが伴います。
人間は未来ではなくて、過去でできているのだから、一度深く結びつき自分の一部となったものが簡単に消えるわけはない。新しい恋愛をしたら、閉じ込めて忘れたつもりになることはできるけれど、「無」にはならないから、何かのきっかけに現れてしまうこともある。
そういう恋愛って、ものすごくエネルギーがいることだから、生涯のうちに何度もできるもんじゃない。前作『恋地獄』では、そんな恋愛を描きまして、わざとではないんですが、対比してしまったかのように、『偽りの森』は自己愛の話になりましたね。女たちの自己愛がどこへたどり着くか……それは小説の最後にある人の口から語らせています。
「家」に関しては、つまりは居心地のいい安全な自分を守ってくれる場所。上記の話と同じで、他人と関係を持つより、オナニストや自分探し恋愛やってるうちは自分の居心地のいい安全な、自分という「家」から出なくてすむ。全て自意識の中で完結させるから傷つかなくてすむわけです。でも、いつまでもそこにいられるわけがないんですけどね。
――女性が自己愛が強いのと同じ理由で、女性は同性への愛と嫌悪が強い気がします。花房さんが描かれる女性が生々しく魅力的なのは、やはり同性として女性という存在に惹かれるからでしょうか。
花房 私、男の人嫌いなんですよ。興味もないし。恋愛や性的な対象は男性なんで、必要とはしているんですが、それ以外の男の人は本当にどうでもいいんです。
極端な話、好きな男以外の男は嫌いだし、いらないと言っていい。男が嫌いで苦手なのに恋愛や性的な対象が男であるなんて中途半端なので、いっそレズビアンになったら手っ取り早いのになんて考えたこともあります。見かけも中身も女の人のほうが深みがあって興味深い。
「女は怖い」という言葉を使ってしまうのは簡単過ぎますが、女は得体が知れなくて、綺麗だし、怖い。結局怖いものが好きなのかもしれません。怪談とか、死にまつわるものが好きで、天国よりも地獄に惹かれるし、いつも私自身は恋愛小説を書いたつもりでも、人に「怖い」と言われることが多いですからね。