わかりやすく伝えようとすると落し穴に陥る
――川島さんは、植松の言葉で印象深いものはどのようなものでしょう?
川島 植松が石川さんに寄せた手記に、「私は『超人』に強い憧れをもっております」という一文があって、これが事件の核心だと思って非常に興味を持ちました。やまゆり園事件は、一般的には、「劣者抹殺」、社会的弱者の排除、社会的弱者に対するヘイトクライムだという見方が大勢だと思います。
それは確かにそうなんですが、でも、僕は「超人」とか優れた存在への傾倒の裏返しとして「劣者抹殺」があると思っているんです。報道はどうしてもわかりやすい理由を求めて、弱者の否定というところばかりを追いかけがちなので、僕はむしろ「超人」のほうから入って取材を続けてきました。
誰しも「超人」とは言わないまでも、優れた存在になりたいという気持ちがあると思います。その気持ちが結果的に他人を傷つけていたり、能力の優劣で人を値踏みするような考えにつながっていたりすることも多々あると思っていて。実際に行動を起こすかどうかは別として、誰しもが植松と同じような考えを持つこともあるだろうし、実際に誰かを自分より劣った存在だとみなして否定してしまうこともあると思う。読者がそこに気づいてくれるような報道をしたいと考えていました。
「悪」を「悪」として書くのはとても簡単です。植松が自分では正しいと思ってきたことが一般通念では「悪」とされる。善と悪が綯い交ぜになっているような関係性を暴きたいと思って取材を続けてきました。でも、それはすごくわかりづらいんです。植松がヒトラーの思想に影響されているという報道もありましたが、僕はむしろニーチェの思想と似通っていると思います。これは第四章「優生思想」に書きました。
この事件はわかりやすく報道すると、誤謬というか、落とし穴に陥ると考えていました。個人的にはわかりやすくない報道をしてきたことが、今となっては良かったかなと思っています。
――たしかに、川島さんが書かれた「優生思想」についての章は、事件物のノンフィクションでは異彩を放っていると感じました。
川島 そう言っていただけると嬉しいです。報道のあり方も植松と同化してしまう危険性があると感じていました。たとえば、植松に対するカウンターの記事を書くときに、「障害者の方でもこんなに頑張っている人がいる」「障害者の方でもこんなにできることがある」「だから共生は素晴らしいんだ」という書き方をしてしまうことがあります。『24時間テレビ』はそちらの方向の番組ですよね。パラリンピックもそうです。障害者が健常者並みに頑張ったから称賛する。でもそれって、障害者を「名誉健常者」と言っているようなものではないでしょうか。
結局、能力の優劣を見ているんです。根底では植松の考え方と重なっているんです。植松は「こいつ、しゃべれるか」と職員に尋ねながら、しゃべれるか、しゃべれないかという能力の優劣で入所者を殺害していきました。
もちろん、障害を持って頑張っていらっしゃる方のことを否定するつもりはまったくありません。でも、「障害者でも頑張っている」という報道をご覧になって、実際に傷ついている方もいる。僕らは、なかなかそのことに気づかないと思うんですよ。その点で僕らも同罪だと思っているし、そういう報道は改めていかなきゃいけないと思っています。第四章は自省と自戒の意味を込めて書きました。
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やまゆり園事件
〈目次〉
第1章 2016年7月26日
未明の襲撃/伏せられた実名と19人の人柄/拘置所から届いた手記とイラスト
第2章 植松聖という人間
植松死刑囚の生い立ち/アクリル板越しに見た素顔/遺族がぶつけた思い/「被告を死刑とする」
第3章 匿名裁判
記号になった被害者/実名の意味/19人の生きた証し
第4章 優生思想
「生きるに値しない命」という思想/強制不妊とやまゆり園事件/能力主義の陰で/死刑と植松の命
第5章 共に生きる
被害者はいま/ある施設長の告白/揺れるやまゆり園/訪問の家の実践/“成就”した反対運動/分けない教育/学校は変われるか/共生の学び舎/呼吸器の子「地域で学びたい」/言葉で意思疎通できなくても/横田弘とやまゆり園事件
終章「分ける社会」を変える