問いたいのは「あなたは何ができますか」ということ
――今までのお話を踏まえて、今回の本で伝えたいことをあらためて教えてください
田中 多くの方が指摘していますが、裁判では何ら明らかにならなかったと言っていい。非常に残念です。事実関係がほとんど争われず、公判前整理手続きがあったことを踏まえても審理期間はあまりに短く、予定調和のように死刑という結論に向けて粛々と進んでいったように思えました。なぜ被告が事件に及んだのか。第2の植松を生まないために社会で共有すべき教訓が得られたとは言い難い。背景を掘り下げることなく、検察側、弁護側ともに、それぞれの主張に終始しました。取材班メンバーに共通する思いですが、司法の限界を見た感があります。
一方で私たちの周りには、実は教訓、共に生きる社会へのヒントはたくさんあります。第五章や終章で特に触れていますが、「共生社会」を声高に言うことは、ある意味、誰でもできることであり、わかりやすいことなんです。この本では「あなたは何ができますか」と問うています。「共生社会」とただスローガンのように掲げるのではなく、「自分は何ができるだろう」と考えるきっかけにしていただければいいと思います。
一章、二章では、現場で何が起きたのか、植松の人となりを知ってもらって考えるきっかけにしてもらい、三章、四章で考えを深めてもらう。事件の背景にある問題を知ってもらったり、違う見方もあることに気づいてもらったりして、五章では実社会の中で何を見ていけばいいのか、何を目指せばいいのかを考える。このような流れが本の中にあると思います。
この4年間、記者はすごく考えて、悩んだんですね。自分だったらどうだろう、自分の家庭のことだったらどうだろう、と。考えはじめて眠れなかったという話も聞きました。もちろん、普段からいろいろなことを考えていますが、特に今回は突きつけられたという気がします。その逡巡の跡を読んで、一緒に悩んで考えていただければと思います。
川島 さっき「忘れないことが大事」という話になりましたけど、この事件を取材していて、そういう美辞麗句は使いたくなくなりました。「事件は終わらない」などの美辞麗句は、この事件に使っちゃいけないと思っています。
オリンピック・パラリンピック東京大会を目前に控えて、「共生社会」が大事だとさんざん叫ばれている中でこういう事件が起こってしまった。つまり、「共生社会」は結局、建前だったことが暴かれてしまったんです。だから、建前ではこの事件は論じられないと思っています。リアルな実社会で「命は等価だ」と叫ぶだけでは、空虚なんです。大前提として障害者差別というものがあるということを認識しながら取材していかなければいけないと思っていました。そんなところも読んでいただけたらと思います。
やまゆり園事件
〈目次〉
第1章 2016年7月26日
未明の襲撃/伏せられた実名と19人の人柄/拘置所から届いた手記とイラスト
第2章 植松聖という人間
植松死刑囚の生い立ち/アクリル板越しに見た素顔/遺族がぶつけた思い/「被告を死刑とする」
第3章 匿名裁判
記号になった被害者/実名の意味/19人の生きた証し
第4章 優生思想
「生きるに値しない命」という思想/強制不妊とやまゆり園事件/能力主義の陰で/死刑と植松の命
第5章 共に生きる
被害者はいま/ある施設長の告白/揺れるやまゆり園/訪問の家の実践/“成就”した反対運動/分けない教育/学校は変われるか/共生の学び舎/呼吸器の子「地域で学びたい」/言葉で意思疎通できなくても/横田弘とやまゆり園事件
終章「分ける社会」を変える