おそろしく高度なマンガ表現とそれを解説する小野耕世の文章がすごい!
その本は、『リトル・ニモ 1905-1914』(小野耕世訳、小学館集英社プロダクション)です。価格は6000円(税別)といささか高めに思えるかもしれませんが、ペーパーバックの『リトル・ニモの大冒険』より判型も大きなハードカバー本で、オールカラー447ページはまさにお買い得。マンガファン必携の1冊というべきでしょう。
私が、『リトル・ニモ』の新訳版を出すなら、「小野耕世のニモヘの長年の愛情に満ちた紹介文」を付けてほしいと思ったのは、ほかならぬ小野耕世こそが日本で初めてウィンザー・マッケイの『リトル・ニモ』を翻訳紹介した人だからです。その歴史的な初翻訳は1976年に『夢の国のリトル・ニモ』というタイトルで、いまはなきPARCO出版局から出ました。定価は38年前で4500円。どれほどの豪華本だったか分かるでしょう。
その本を開いたときの衝撃! まずは色彩の鮮烈さに圧倒されました。これが70年も昔の新聞に載ったマンガだとはにわかに信じられませんでした。
しかし、それには特別な理由があったのです。『夢の国のリトル・ニモ』が底本にしたのはノスタルジア・プレスという会社が1972年に出版した刊本なのですが、このノスタルジア・プレス版は新聞をそのまま復刻するのではなく、最初にすべての色を取りさって純粋な線画に戻し、新たに色指定をおこなって着色するというじつに手のこんだプロセスで復刻されたものだったのです。
印刷当初のカラーの鮮やかさを再現するためとはいえ、こうした主観的な復刻のやり方に疑問を呈する識者やマニアが出てくるのは当然のことです(もはや印刷当初の色彩の状態を知る人は誰もいないのですから)。その反応は、いってみれば、ウフィッツィ美術館の名作絵画(ミケランジェロの『聖家族』など)が修復され、まるで映画の看板絵のように鮮烈かつ俗悪な色彩で輝くのを見て、驚嘆すると同時にいささかげんなりするような感覚に似ているかもしれません。
しかし、ノスタルジア・プレスの手法は、歴史の闇に埋もれてしまったポップカルチャーの最重要作品に光を当て、一気に再評価の土壌を作りだすのにきわめて有効でした。ノスタルジア・プレス版『リトル・ニモ』は、英語版のほか、イタリア語、フランス語、ドイツ語の諸版が同じ造本で刊行されたということですが、私の参照したフランスのオレイ社版(2004年復刊)には1969年という初版の刊行年が記されています。前述のようにノスタルジア・プレス版が出たのは1972年のことですが、これはフランス語版が先に出たということなのでしょうか?……
ともあれ、ノスタルジア・プレス版に基づいて印刷された邦訳『夢の国のリトル・ニモ』の色彩の美しさは私たちを愕然、そして陶然とさせました。とくにコマごとに同じ情景で色彩ががらりと変わる連続場面(43ページ)などは、はるかのちにゴダールが『軽蔑』(1963年)でおこなう色彩実験を髣髴させました。そうしたショックを端緒として、『リトル・ニモ』のおそろしいほど高度なマンガ表現の超絶技巧の世界に私たちは導かれていったのです。
もうひとつ、邦訳『夢の国のリトル・ニモ』が決定的な重要性をもっていたのは、巻頭に訳者・小野耕世の「小さなニモの世界」という長文の解説が載っていたからです。この愛情あふれる解説によって、私たちはマッケイとニモというまったく未知のマンガ世界のことを、広く豊かな世界マンガの視野のなかで教えられたのです。
今回の新訳『リトル・ニモ 1905-1914』にも小野耕世の長い巻末解説が載っていますが、これは前述の「小さなニモの世界」の論述の順序をいれ替え、すこし書きなおしたり、増補したりしたものです。その点、初訳本の所有者には若干物足りない感じもするのですが、しかし、初訳から38年経っても解説の骨子をほとんど変えることなく現代の読者に通用させうるという事実は、小野耕世の解説が最初からどれほど高い完成度をもっていたかということの証明でもあるわけで、私はむしろそのことに感動させられます。日本の読者が、最初から、小野耕世という世界的なレベルでも突出して高度な『リトル・ニモ』の理解者による翻訳・解説をもちえたことに感謝したい気持ちです。
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マンガだけでも、いいかもしれない。
いまやマンガは教養だ――。国内外問わず豊穣なる沃野をさらに掘り起こす唯一無二のマンガ時事評論。
※本連載は雑誌「星星峡」からの移行コンテンツです。幻冬舎plusでは2011/04/01から2014/04/17までの掲載となっております。
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