空間の超現実主義者・マッケイのだまし絵的魔術
小野耕世に続いて『リトル・ニモ』の見事な解説をおこなった日本人は、先にも名を挙げた細馬宏通です。細馬は、『リトル・ニモ』の連載第1回(「ニューヨーク・ヘラルド」紙、1905年10月15日)のタイトルを含む1コマ目を分析して、そこにメタマンガ的トリックが仕掛けられていることをあっさりと指摘しました。目からウロコが落ちるような鋭い読解です。今回の『リトル・ニモ』の大きな画面で見ると、その仕掛けがよく分かります。
連載初回の1コマ目というのは、夢の国の王様モルぺウス(ギリシア神話における眠りと夢の神で、「モルヒネ/催眠剤」の語源)が家来のウンプに向かって、「ニモを連れてきてほしい」と告げる場面なのですが、このコマの枠線は太く、深紅に塗られていて、モルぺウス王の腕の肉が枠線からすこしはみ出ていると細馬は指摘します。そのため、モルぺウス王は枠線に腕をかけ、枠線をこえて読者に向かってじかに語りかけているように感じられるのです。これは、マンガの物語がすべてコマの枠組みの内部で展開する絵空事だという根本的な約束事を破って、マンガのコマという虚構の制度と戯れることにほかなりません。マッケイは『リトル・ニモ』の出発点から、そうしたメタマンガの試みを実践していたのです。
小野耕世も解説で語っているように、『リトル・ニモ』には、主人公のニモや冒険仲間のフリップやインピーがコマの枠線をひき剥がしたり、タイトルの文字を食べてしまう、明白なメタマンガ性を発揮した回もありますが、細馬の『リトル・ニモ』の連載第1回の1コマ目の分析にはびっくりさせられました。
『リトル・ニモ』の卓越したマンガ表現に関して、いま色彩とメタマンガ性という特色に触れましたが、第3に挙げるべきは、その線描技術の繊細さと変幻自在さでしょう。
『リトル・ニモ』の明らかにアール・ヌーヴォー調の色彩の乱舞に幻惑されてしまうと、その線描までもがアール・ヌーヴォー的な曲線重視の影響下にあるように見えてきます。しかし、旧訳『夢の国のリトル・ニモ』は、おそらく値段が高くなりすぎることを恐れて、モノクロのページが本全体の半分くらいを占めていました。これは怪我の功名ともいうべき措置で、モノクロの画面を仔細に見ると、マッケイのドローイングの柔軟な曲線だけではなく、正確無比の直線の活用が際立ってよく見えてくるのです。これを見ると、マッケイはオーブリー・ビアズリーに匹敵するような、独創的な線描の名手であることが分かります。
その線描の巧みさによって、マッケイのマンガ表現の第4の特質が文字どおり浮き彫りにされます。それはパースペクティヴの魔術です。ひとコマひとコマにおいて空間の深さを自由自在に操る技術、すなわち平面を立体に見せる詐術、逆に立体を平面的に処理する詐術が駆使されていて、マンガをすらすらと読むのではなく、マンガをじっくりと見る喜びを『リトル・ニモ』は教えてくれます。その点でも、判型の大きな今回の『リトル・ニモ 1905-1914』はマンガを見るという直線的な目の快楽をよりよく味わわせてくれます。
夢の国の宮殿の列柱が森の木々に変貌し、その木々の間に赤い巨大なオニが見え隠れする回(107ページ)では、まるでシュルレアリスト、ルネ・マグリットの先駆のようなだまし絵的技法も見られます。
そう、シュルレアリスム(超現実主義)といえば、アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を書いて20世紀最大の芸術運動に発展させるきっかけを作るのは1924年のことですから、マッケイは文句なしにシュルレアリスムの偉大な先駆者なのです。
小野耕世は『リトル・ニモ』のいちばん驚異的なイメージとして、主人公たちがさまよう花園がじつは巨大な婦人用の帽子だったという回(190ページ)を引いています。この巨大な帽子というのは、マッケイの初期作品『チーズトースト狂の悪夢』にも登場するマッケイの偏執的に好んだイメージだということですが、私が連想したのは、ゴシック・ロマンス(英国怪奇小説)の最初の作品であるホレス・ウォルポールの『オトラント城奇譚』(1764年)に出てくる、空から降ってきた巨大な兜です。
ウォルポールはこの作品を夢で思いついたと知人に書簡で告白し、その手紙を引いてブルトンは『オトラント城奇譚』こそ、夢に身をゆだね、自動記述によって言語芸術を作りだすシュルレアリスム的方法の純粋な実践だと語りました(『野を開く鍵』)。ブルトンは城を舞台に選ぶこともシュルレアリスム芸術の重要な契機だと論じていますが、『リトル・ニモ』には、モルペウス王の宮殿をはじめ、多数の城館が出てきます。
なかでも、空間が伸縮自在に変幻をくり返す「幻惑の間」の場面(126~133ページ)は、マッケイ的空間魔術の極致といえるでしょう。ブルトンは『シュルレアリスム宣言』のなかで「スウィフトは悪意においてシュルレアリストである」「ランボーは人生の実践その他においてシュルレアリストである」といった定義を列挙していますが、それに倣っていえば、「マッケイは空間の構築においてシュルレアリストである」というべきでしょう。
マンガだけでも、いいかもしれない。
いまやマンガは教養だ――。国内外問わず豊穣なる沃野をさらに掘り起こす唯一無二のマンガ時事評論。
※本連載は雑誌「星星峡」からの移行コンテンツです。幻冬舎plusでは2011/04/01から2014/04/17までの掲載となっております。
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