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それほど日をおかず、母子は再びやって来た。子供の方は乳母車に乗っていて、俺を見るといきなりすっくと立ち上がった。
「ほらほら、たっちしたらあぶないよ」
のどかな口調で言う母親におかまいなしで、明らかに、間違えようもなく、じっと俺を見つめている。そしてゆっくり俺の前を行きすぎながら、子供は少しずつ首をよじって、俺を見続ける。おいおいそんなに捻っちゃ、首が外れて落ちるんじゃないかと心配になった頃、子供は満面の笑みを浮かべ、そしてようやく正面に向き直った。そして何やら母親に報告めいた声を上げる……明らかに人外の言語で。母親は「そうなの、良かったわねー」とあやすように言い、玄関の方に向かった。呼び鈴に応えて出て来た住人は、母子のことを覚えていたようで、半分笑うような呆れたような表情を浮かべた。
「……あの」と母親は、包みを取りだして言った。「先日は桃をたくさん、ありがとうございました。お友達とジャムにしましたので、もし良かったら……おいやじゃなかったら……とても、美味しくできたので」
「あらまあ」老婦人は面白そうに笑った。「わざわざどうもありがとうね。あなた、あれだけの桃を全部ジャムにしたの?」
「ええ、お友達みんなと協力して、ありったけの瓶を集めて……」
「ほんとに、あれを全部? そうそう食べ切れるもんじゃないでしょう」
「ええ、だからこうして、お世話になった方たちに配って回っているんです」
老婦人はしげしげと母親を眺め、子供を眺め、それから傍らのオンボロ乳母車を眺めた。考えていることは、俺にだってわかった。母子は見るからに質素ななりをしている。とても生活に余裕があるようには見えない。
「あれだけの量だと、お砂糖代もガス代も手間暇も、馬鹿にならないでしょうに」
老婦人が、相手に失礼になるギリギリの感想を述べたら、若い母親は気弱げな微笑みに、ほんのわずかな意気地を乗せて言った。
「だって、あんなにたくさんの若い実が、あのまま地面で腐って捨てられてしまうのは、とても哀しいことでしょう?」
女主人は少し驚いたようだったが、すぐににっこり笑って言った。
「そうね、あなたの言うとおりだわね」
その日は時間がないという相手を、老婦人は「ぜひまたいらしてね。近いうちに、必ずよ」という言葉と共に送りだした。母親は「喜んで」と請け合い、ほどなくしてその約束は守られた。老婦人はとても喜び、母子を庭に引っ張り込んだ。
「ほら、残った桃がちゃんと美味しく実ったの。残り福をお分けするわね」
ちょきんちょきんとハサミの音がする。母親は恐縮しているようだった。
「……これが桃でしょ、そしてそっちが桜。もちろんサクランボがなる品種。それから栗に梅に、あとは柿でしょ、あとはイチジクにキンカンもあるのよ」
庭を案内しているらしい声が聞こえてくる。
「すごい」若い母親の、心底感心したような声が続いた。「果樹園ですね、うらやましいわ」
「食いしん坊なのよ」老婦人は声を立てて笑った。「でも駄目ね、しょせん素人栽培だから、あんまりうまくいかなくて。初めの頃なんて山ほどの毛虫にやられて、大慌てで植木屋さんに相談に行ったわ。私ね、もとは都会でマンション暮らしだったから、広いお庭に憧れていたのよね……地に足の着いた暮らしって言うのかしら。祖父母からこの家を遺されたのだけど、夫の仕事も子供たちの学校もあるから、時々手入れに来るくらいで空き家になっていたの。だけど定年前に夫が亡くなってしまってね……その時には子供たちはもう独立してたし、思い切ってマンションを処分して、こちらにやってきたってわけ。もう十年くらいになるかしらねえ」ここまで話して、老婦人は慌てたような声を上げた。
「あらあら、急にどうなすったの?」
「……私も、同じなんです……夫が事故で亡くなって、こちらに叔母が遺してくれた家があって……」
途切れ途切れに、母親の声がする。泣いているらしかった。
「それは辛かったわねえ……あのね、佐々良には、そういう人がけっこう多いらしいのよ。亡くなった親族から家をゆずり受けて、そのまま居着いてしまう人。なぜって」
『ここはとってもいいところだから』
終いの部分は、二人の声が重なった。
「ねえ、見て見て」ことさら陽気な声で老婦人が言う。「これはぶどうなの。初孫が生まれた記念にね、植えたの。今はまだこんなに小さいけど、そのうち立派なぶどう棚になる予定。たくさん実ったら、自家製ワインでも作ろうかしら。遠大な計画よ」
何か大仰なゼスチャーでもしたのか、母親がくすりと笑った。
「……きれいな桃。小さな苗木が大きく育って、こんな立派な実をつけるのは、とてもすごいことですよね」
「本当にね」
二人の女の間には、年齢の差を超えた友情が結ばれたものらしかった。
それからときおり、母子はその四つ辻の角の家を訪れるようになった。どうも家の主が「今度はこの実がなったからいらっしゃい」と呼びだしているらしい。母親の方は律儀に何かに加工しては、それを手みやげにまた訪れる。
あの幼子が俺を見ているということは、もはや疑いようもなかった。いつも俺を見つけると満面の笑みを浮かべ、こちらを手招きするような仕種さえする。もちろんその場からは動くことの叶わない俺なのだが……。