いつしか季節は秋になっていた。
「この間いただいた栗で、渋皮煮を作ってみました……お友達に教わって」
玄関で容器を差し出そうとする母親を、女主人は腕を引かんばかりに出迎えた。
「あら嬉しい、それじゃさっそくお茶と一緒にいただきましょ。ほら、ユウ坊もお上がんなさいな」
とろけそうな声で言う。ユウ坊と呼ばれた子供は俺を振り返り、一言「おいれ」と言って手招きをした。その声と仕種に導かれるように、俺は家の中へと入っていった。古めかしいけれども、手入れの行き届いた家。ごたごたと物は多いけれども、不思議と落ち着く室内。
それは俺が忘れかけていた、生きて生活する人の暮らしそのものだった。
途方もなく長い間、人はただ、俺の前を通り過ぎていくばかりだった。雨が四つ辻を洗う日も、真夏の太陽が地面を焦がす日も、朝も昼も夜も、俺はただ、ぼんやりと立ち尽くすばかりだった。
胸に何かがこみあげ、俺の心はざわりと揺れる。そんな俺の存在にはもちろん気づかず、二人の女はのどかに話し続けていた。
「ああ、柿の木は元からあったんですか。なるまでに八年かかるって言いますよね」
「ここらじゃ庭に植えてるお宅、多いわよね。気候が合うんだか、よくなるわ」
「秋の果物と言えば、梨もありますよね。どうして植えてないんですか?」
母親の問いに、女主人は茶を入れる手を止めた。
「ああ、昔はね、この家にもあったんですってよ、梨の木と、あと枇杷の木もね。でも、悪いことがあって、その都度切り倒してしまったんですって」
「なぜですか? 梨も枇杷も、とても美味しいのに」
「美味しいわよね、私も好きよ。でもどちらも、庭に植えるのは不吉だって言う人もいるのよ。まあ、迷信なんだけどね……ほら、忌み言葉ってあるでしょ? 梨は無しに、ひいては死に繋がるから、お見舞いに持っていくのは駄目とか……だから梨のことを、有りの実、なんて呼ぶ人もいるのよ」
「まあ、そうなんですか。私、物知らずで……枇杷はどうして不吉なんですか?」
「色々言われてるけど、一番は、葉がよく効く薬になるから、病人を引き寄せてしまうんですって。病気の中には移るものも多いから、それで家人に災いが及ぶってことらしいわ。昔から、お寺なんかにはよく植わっているのよね」
「まあ、そうなんですか」母親は目を丸くした。「どうしましょう、頂き物の枇杷があんまり美味しかったから、種を庭に埋めてしまったんです。とても可愛い苗木になっているのだけれど、抜いた方がいいかしら」
「枇杷の葉は子供の汗疹にも効くらしいから、しばらくはそのままにしておけば? あまり大きくなっちゃうと、枇杷は大きな葉がびっしり茂るから、家の中が真っ暗になってしまって、それも病気を呼びやすい理由の一つっていわれているから……」
女たちの会話が、だんだん遠くなっていく。代わりに胸のざわめきが、どんどん大きくなってくる……。枇杷の大きな葉。風を受けてざわざわと揺れ、ばさりと落ちてくるかさばる葉。
子供の汗疹によく効くからと、わざわざ植えられた枇杷の木。それはなぜ、切り倒された?
そしてまた、秋が来るたび、小ぶりだが甘い実をつけてくれた梨の木。それはいつ、切り倒された?
秋風が小さな果樹園を抜けていく。ざわざわ、ざわざわ、木の葉が揺れる。
ふいに、それまでちんまり座っていた子供が、立ち上がってとととと駆けだした。駆け寄ったのは、奥の間の仏壇である。そこには何枚もの写真が飾ってあった。子供は小さな指でそのうちの一枚を、懸命に指差し、「おいたん、おいたん」と連呼した。それから唐突に振り返り、真っ直ぐ俺を指差して、言った。
「おいたんっ」
「……ああ、そのオジサンはね」朗らかな声のまま、家の主は言う。「おばあちゃんのお父さん」それから母親の方に向き直り、「これがまた、とんでもないロクデナシだったのよお。何しろ私が生まれた途端、失踪しちゃったんだから。その時よ、梨の木が切られたのは」
「あの……」
若い母親がおずおずと口を挟んだが、家の主には聞こえていないようだった。どこかうわごとのように、一人語りを続けている。
「一人婚家に残された母がどれだけ苦労したことか。それでも五年はこの家で待ち続けたそうよ……私にはもう、その頃の記憶はないのだけれど。その後色々あって母も実家に帰ることになって。時々お金が届いたそうだけど、それだってほんとに父からだったかは疑問よね。母はそう信じてたらしいけど……私は祖父母からじゃないかって思ってるわ。だって初めての子供が生まれた途端、家を飛び出すなんて無責任極まりないじゃない? この世に生まれてきた私に失礼というものでしょう?」
心持ち顔を紅潮させて言いつのる老婦人を、俺はまじまじと見やった。
それでは──。
あの写真の男は、俺なのか? そして目の前にいるのは……我が子なのか?
それはひどく荒唐無稽で、滑稽なことに思えた。なのにとてつもなく、空恐ろしかった。ぞわりぞわりと、実体のない皮膚が総毛立つ。
「──あのっ」
ふいに、若い母親が声を張り上げた。「あの、お父様にも、きっと何かわけがあったんじゃないかしら。たぶん、深い理由が……」
「まあ、ね」ふと目を伏せて、老婦人は言う。「それらしきことは、母から聞いてはいるの。昔……子供の頃にね……」
彼女がそう話し始めたとき、おそらくその場にいた者が皆、同時に気づいた。
部屋に迷い込んだ蝶を追って、幼子が走り出していた。とととと縁側の床板を鳴らしながら、子供は思いがけない早さで移動する。足許などまるで見ていない。
秋晴れの日、ガラスの引き戸は開け放たれていて、縁側の先は幼い子供にとっては大きすぎる段差になっている。もしもそこから落ちたなら、下はコンクリと沓脱の石だ。