記憶の中にたゆたっていたもやが、突然晴れた。
父と母が泣いていた。医者は「可哀相に、打ち所が悪かった……」とつぶやいていた。そして俺は、ただ呆然と立ちすくんでいた。
俺の幼かった弟は、今とまったく同じ状況で縁側から落下して、あっけなく死んだ。俺の、目と鼻の先で。人一人がこんなに簡単に死んでしまうなんて。幼い子供がこんなにも脆く、儚いものだったなんて。母から言いつけられていたというのに……今、手が放せないから、あの子のことをしっかり見ていてね、と。
そう言われていたのに。なのに、守れなかった。助けられなかった。みすみす、見殺しにしてしまった……。
そうだ、俺は怖かったんだ。我が子をこの手で殺してしまうのが。弟を救えなかったこの手で、壊れ物のような赤子を抱くことが──。
「コラーッ、止まれ。止まるんだ」
俺は力の限りに叫んだ。俺の身体は瞬時に子供の正面に飛んでいた。我が身に実体がないことは承知していたが、それでも全身に力を込めて子供を押し戻す。子供の次の一歩は、間違いなく空を切るはずだった……が、そうはならなかった。すんでのところで子供は短い足をもつれさせ、でんと尻餅をついた。子供はわあっと泣きだし、石化したようだった女二人が慌てて駆け寄った。
ここまでが、ほんの束の間の出来事である。
「……あ、ああ……危なかった……」
真っ白な顔で、母親はつぶやいた。老婦人も、腰を抜かしたようにその場にへたり込んでしまった。子供は母親にしがみつきながら泣き叫んだ。
「おいたんがコラってゆったー」
小さな指が、また俺を指す。母親ははっとしたように老婦人を振り返った。
「お父様がいらしてます。今、ここに。この子には、視えるんです。信じられないかもしれないけど、ほんとにほんとなんです。たった今、この子を助けてくれたんです」
必死で言いつのる母親を、老婦人は縁側に坐り込んだまま、ぽかんと見つめた。母親はなおも言う。
「お父様に言いたいことがあるでしょう? 今なら伝わるかもしれないんです」
老婦人にとっては、それは馬鹿馬鹿しくも途方もない言葉だったろう。彼女の表情は忙しく変わり、やがてあやふやな笑顔が一転して、くしゃくしゃの泣き顔になった。
「……この……バカオヤジー!」
ひと声叫んだその様子は、それまでの上品な老婦人のものではなく、駄々をこねる童女のようだった。
「今、私、いくつだと思っているのよ。もうすっかりおばあちゃんだよ。何十年も、こんなとこで何やってたのよ。早くお母さんのとこに行って、謝ってよ。おじいちゃんとおばあちゃんにも謝ってよ。言っときますけど、謝ったからって許されるなんて思わないでね。許せるわけ、ないじゃない。みんな、ほんとに、ずっと辛かったんだから……」
悪し様に罵るその両頬を、涙が伝っている。やや間を置いて、彼女はつけ加えた。
「……でもね、ほんと言うと、お母さんはもう許してたんだよ。亡くなった弟さんのことが忘れられないんだろうって、そう言ってた。あの人も辛かったのよって。私は、納得いかなかったけど。でも……それでも私はここで、こんな日を待ってたのかもしれないわ」
女主人は若い母親を振り返り、幼子を見つめ、そして俺の方を……俺がいる場所とは微妙にずれた場所をぼんやり眺めてから、かすかな声で言った。
「──もういいよ。もう楽になってよ……おとうさん」
その瞬間、強い風が吹いた。果樹の葉ずれの音。木々の、ざわめき。その中に、今はもうないはずの、枇杷や梨の葉が奏でる音も混ざっているような気がした。
そして俺は気づく。もう長いこと、俺を縛りつけてきた鎖が、跡形もなく消えてしまったことに。
こんな俺を「おとうさん」と呼んでくれた娘に、決して届かぬことを承知で「ありがとう」とささやいた。幼子が回らぬ口でそれを伝えてくれていたようにも思うが、もう俺にはわからなかった。
四つ辻から解き放たれた俺は、ようやく旅立てる。秋風と共に、どこへとも知れぬ場所へと。
(「パピルス」2014年12月号 vol.57より)