その二週間後。
私は病棟の小部屋で、患者さんとその奥さんと三人で話していた。
「手術をしなければ、おそらく三カ月はもたないでしょう。腫瘍が大きくなるスピードが速く、あと一カ月程度でお腹がぱんぱんにふくれ、食事はいっさいできず毎日吐きます。鼻からチューブを入れ、おそらく二度と抜けません。そして出血が続き、毎日輸血が必要になります」
ご本人と奥さんの顔色がみるみる変わっていく。
「では手術をしたらどうなるか。おそらく腫瘍は取りきれると思います。ですが、それ以外に問題があります。麻酔科の医師は、手術が終わっても麻酔から醒めないかもしれない、と言っています。また手術中に脳梗塞が起きたらアウトです。仮に生きていても、しゃべれなくなったり、手足にひどい麻痺が起きたりするかもしれません」
私は続けた。
「手術が終わって、麻酔から無事醒めたとします。そうだとしても、手術後数日以内に、心筋梗塞や脳梗塞が起きる可能性はきわめて高いのです。そして一度起きたら、もう助かりません。つまり、手術をした場合……」
つばを飲み込もうとしたが、無駄だった。口のなかがからからに乾いていた。後頸部を汗がつつ、と垂れるのがわかった。
「手術をした場合、高い確率で死亡します。死亡しなくても、まともに家に歩いて帰れる可能性はきわめて低い」
さて、どうなさいますか。
鉛のような沈黙が、部屋全体を包んだ。
奥さんが、嗚咽(おえつ)をもらした。患者さんも、泣いていた。親子ほども年の離れた若い医者の言葉で、二人は静かに泣いた。
私は、黙って待った。どのくらい黙っていただろうか。
部屋にかかった時計の針の音が聞こえるようだった。私は、ぴくりとも動かなかった。
「先生」
患者さんが、口を開いた。
「どうすればいいか、私にはわかりません」
「はい」
「手術をして数日以内に死ぬのであれば、私は苦しみながらでもあと三カ月生きたい。まだいろいろと準備があるのです」
私は返事をしなかった。
「あなた、何を言っているの」
泣いていた奥さんが、不意に涙声を出した。
「先生、切ってください。切らなければチャンスはないんですよね? お願いです、切ってください」
「でもお前……」
「あなた、お願いします。手術を、受けてください。お願いです」
奥さんは、まるで仏壇に祈るように手を合わせて、夫に懇願した。
また、みな黙った。廊下を看護師がぱたぱたと早足で歩いていく音が聞こえた。
「私に任せてください。必ず、治します。生きて帰ってもらいます」
そのひとことが、言えない。どうしても、言えない。
言ってしまって、手術後すぐに死んでしまったらどうするのか。
言わずに、患者さんが手術を諦めたら、血を流しながらそのまま死んでいくのか。
俺はなんのために医者になったのか。なぜ俺はここで今、白衣を纏(まと)い座っているのか。俺は、本当に医者なのか……。頭の奥の血管を流れる血液に乱流が起きる。びゅうびゅうと音を立てて、心臓は血を拍出している。穴のないドーナツのような形の無数の赤血球が、脳内を駆け巡っている気がした。臆病と蛮勇の間で、外科医はいつも叫んでいる。声を出さずに。
「○○さん」
二人は、驚いて顔をあげた。
「正直に言います。私は、○○さんを手術するのが怖い。手術したら、死んでしまうかもしれない。こんなリスクの高い手術をやる外科医は、日本中どこを探したっていないかもしれません」
「でも、もしあなたが私の父親だったら」
患者さんと、目が合う。視線が交錯する。
「父だったら、手術をします」
精一杯の、言葉だった。
「そこまで、言ってくださるんだったら、私は先生にいのちを預けたい。私は、勝負してみたい」
手術が、決まった。「手術をしなければ三カ月以内に死亡します。手術をしても死亡する可能性がかなり高く、歩いて帰れる可能性はほとんどありません」と書かれた同意書に、サインをいただいた。