「左翼縛り」に負けそうだった学生時代
國分 さっき麻木さんが、一部の学生運動が人々の心からかけ離れたものとしてあったっておっしゃったけれど、それは本当に大きな問題ですよね。僕が学生だった90年代もそう。でも、不思議なのは、社会全体としては運動はもう低調な時代なのに、僕が関わってる思想とか哲学の分野では、「社会問題に関心を持たねばならない」「左翼的でなければならない」という重いプレッシャーがあった。そのあたりがちぐはぐなんです。
左翼的でなければならないというプレッシャーのことを僕は「左翼縛り」って呼んでいるんですが、僕もそれに負けそうになってました。だけど、僕を含めて、僕らの世代の言論に関わっている人たちって、あるときからそういう縛りを「もう嫌だ!」って投げ捨てた感じなんです。だから僕たちの世代は「国益」なんていう言葉も当たり前に使う。昔は「国益」なんて口にするだけで糾弾されました(笑)。
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