部屋飲みに誘ったのが自分だったという記憶はある。飲んでいるうち、ほぼ初対面に近い榊原にヒクソンへの思いを打ち明けたことも覚えている。
だが、その際に自分が涙したことを、髙田は覚えていなかった。
「わたしさあ、『タイタニック』を観ても泣かなかった人間よ? 3回観て、1回も泣かなかった。空手六段の友人が号泣したって言うんで、あなたがそこまで言うのなら観てみようかって。でも、何度観ても涙なんか出ないのよ。そんなわたしだよ、人様の結婚式でも泣かない人間だよ? だいたい、ヒクソンがどうこうってこっちが勝手に言い出したことだよ。自分で言い出して、自分で泣いちゃったの? それはないと思うなあ」
ただ、そんな彼も、思いを打ち明けた直後、榊原が何と答えたかは鮮明に覚えていた。
「本当ですか? そう言ったんだよ、バラちゃん。『マジですか?』でも『何でですか?』でもなく、すごくあっさりとしたイントネーションで。もしあの時、バラちゃんの言葉にほんの少しでも疑念であったり驚きみたいなニュアンスが混じっていたりしたら、たぶん、そこで話をやめてたと思う」
髙田は話をやめなかった。「本当ですか?」という言葉の先に何かがつながっているような、榊原が何かを飲み込んだような、そんな気がしたからである。
「じゃあ、やりましょうよ! そんな言葉が出てくるんじゃないかって思ったんだよね、一瞬。結局、出てこなかったけど」
榊原が精一杯の自制心で言葉を飲み込んでいたことを、この時の髙田はもちろん知らない。それでも、自制心を働かせすぎたがために、榊原の「本当ですか?」という言葉には異様なほどの静謐な気配が漂っていた。
それは、この時のこの場に最も必要な空気だった。
「わたしの中ではさ、ヒクソンとやりたいっていうのは、絶対に口にしちゃいけないことだと思ってたから。一度口にしてしまったら二度とあとには戻れないし、自分の覚悟が中途半端だったら絶対に、ああ、あんなこと言わなきゃよかったってことになる。だからどれだけ飲んでも、どれだけベロベロになっても、誰一人にも言ったことがなかった。心の奥底深い深いところにしまい込んで、ガッチガチに施錠してた。それが、あの時、わたしにとってのヒクソンだった」
長いこと、というより芽生えてから一度も表に出ることなく、地中奥深くで蠢いていたヒクソンに対する思いである。初めて顔を出した地上で、笑いや驚きといった眩しい感情に接していたら、怯えて安全な地中に逃げ帰っていたかもしれなかった。
だが、若くしてK-1の興行に携わっていた東海テレビ事業のやり手社員は、ヒクソン・グレイシーという男の存在を知っていた。まもなく彼と会うという約束も交わしていた。それゆえに期せずして静謐が生まれ、その空気が生まれたがゆえに、ヒクソンに対する髙田の繊細な本音は隠れることなく居残ることができた。
「いまから思うと恐ろしいよね。もしあの時、バラちゃんの反応が違うものだったら、わたしも慌てて本音を引っ込めて、冗談でしたってことで済ませちゃったかもしれない。でも、いろんなことを忘れてるけど、あの瞬間だけは、不思議なぐらい鮮明に覚えてるんだよね。『本当ですか?』と言ってバラちゃんが黙った。わたしはわたしで『どういうこと?』って聞きたいのを、必死になって我慢した。そのやりとりだけは、鮮明に」
その瞬間を最後に、髙田の記憶は輪郭を失っている。ただ、あの時の自分が強い安堵感に浸っていたことは、はっきりと覚えている。
「やっと言えた。やっと言える時が来た。やっと言える人が現れた。安堵感だったのか、解放感だったのか、とにかく、溜まりに溜まったものを全部吐き出せたっていうか、すごく静かで穏やかな感情が込み上げてきてたんだよね」
長い夜が終わろうとしていた。
来客を見送った髙田は、久しぶりに、本当に久しぶりに安らかな気持ちで眠りに落ちていった。