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2017.12.06 公開 ポスト

『プライド』の冒頭50ページを特別先行公開!

髙田延彦 vs ヒクソン・グレイシーの真実が、20年の時を経て、初めて明かされる。金子達仁(ノンフィクション作家)

 そこに高圧的な空気があったわけではまったくない。そして、榊原信行という人間が摂取できるアルコール量の限界は、とうの昔に超えてしまっている。

 にもかかわらず、髙田からの誘いを榊原は拒まなかった。

 拒めなかった、のではなく、拒まなかった。

「何でなんでしょうねえ。まだ髙田さんの側に遠慮があったのかなあ。というのも、相当に、目茶苦茶に飲まされはしたんですけど、あの日の酒っていうのは、その後のお付き合いで飲まされるほどには無茶じゃなかったですから。あと、自分でもギリギリのところで理性が飛ばないよう、ブレーキはかけてましたし」

 だからなのか、彼は倒れなかった。プロ野球選手ですら呆れるほどアルコールを摂取したにもかかわらず、髙田をホテルに送り届けようとする社会人としての理性も、まだ残っていた。

 Uインターの社長が宿泊していたのは、それほど広いともいえない、ごくスタンダードなツインルームだった。ベッドに腰掛けた部屋の主は、それまでと変わらないペースでミニバーのアルコール類を消費し始めたが、さすがに、榊原に勧めることはなくなっていた。

 取り留めのない四方山話がしばらくは続いた。なにしろ、初めて出会ったのがほんの10時間ほど前でしかない二人である。どんなくだらない話でも、互いの人間性を知るためには必要なことだったのかもしれない。

 いつ、どんなタイミングでそれが始まったのか、榊原の記憶は漠然としている。というより、その後に起きたことのインパクトが強すぎて、それ以前の記憶が飛んでしまった、という方がより正確かもしれない。

 その瞬間、酔いが一気に飛んだ気がした。

 彼がはっきりと覚えているのは、ベッドに突っ伏す形でなかば独り言のように話をしていた髙田の肩が、細かく震え始めたということである。

 最強のプロレスラーとも呼ばれた男が、泣いていた。

「嗚咽しながら、言うんです。俺はUインターを愛してくれた人を裏切ってしまった。もう引退したい。でも、ヒクソン・グレイシーかマイク・タイソンと戦ってから引退したいって」

 それは、榊原が初めて目撃したプロレスラーとして生きる男の業の深さだった。

「武藤戦の話とかをしたわけじゃない。でも、髙田さんがしてるのは、明らかにそういう話だった。あの試合で武藤に4の字固めで負けたってことは、髙田さんにとって自分でも許せないほどの屈辱だったんでしょうね。自分が、団体が生きていくためにはそれを受け入れざるをえない状況があって、髙田さんは受け入れた。魂を売った。売らざるをえなかった。その辛さや痛み、いろんなものが一気に吹き出してきた感じでした」

 曲がりなりにも格闘技、プロレス業界の人脈も広げつつあった榊原である。酔いの吹っ飛んだ頭で改めて考えてみると、あの試合がどれほど衝撃的だったのか実感できた。

「勝負の形をとっている以上、どちらかが勝ち、どちらかが負けるのは当然なんですが、たとえばギリギリで場外から戻れずにリングアウトとか、どちらも傷つかない形でのフィニッシュっていうのがありがちなパターンじゃないですか。よりによって4の字固めでギブアップでしょ? 6万7000人が見守る中で、プロレスに屈するってことを受け入れさせられたわけですから」

 だが、榊原の酔いを吹き飛ばしたのは、髙田の涙だけではなかった。

 彼には約束があった。

 ヒクソン・グレイシー──400戦無敗ともいわれるその男と、榊原は数週間後に会うことが決まっていたのである。

 ほんの一瞬の間に、榊原の頭の中では猛烈な葛藤があった。

 ここでヒクソンと約束があることを告げるべきか、否か。

 答えは、すぐに出た。

 いまは、そのタイミングではない。

 だから、涙ながらにヒクソンへの思いを吐露する男に、彼はこう言った。

「本当ですか?」

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金子達仁 ノンフィクション作家

1966年神奈川県生まれ。法政大学社会学部卒。サッカー専門誌の編集部記者を経て、95年独立。96年、Sports Graphic Number誌に掲載された「断層」「叫び」で、ミズノスポーツライター賞受賞。『28年目のハーフタイム』『決戦前夜』『ターニングポイント』『泣き虫』『熱病フットボール』など著書多数。近著には、義足アスリート・中西麻耶の壮絶な生き様に迫った「ラスト・ワン」がある。

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