第一次UWF(ユニバーサル)から第二次UWF、さらにはUWFインターナショナル。それから10年あまりの間に、髙田は3つの新団体設立に参加し、師匠として心酔していた藤原、兄と慕っていた前田とも決別して作ったUWFインターナショナル(以下、Uインター)では社長を務めた。
出会いと決別を繰り返した10年間で、髙田の顔つきは変わった。裏切られたこと、裏切ったと思われても仕方のない立場に追い込まれたこと。これまでに積んだ様々な経験が、そこで味わってきた苦みが、彼の表情に陰影を刻むようになっていた。
負の感情を呼び覚ましてしまうスイッチは、もはやどうやっても取り外せなかった。
スイッチ──地雷を埋め込んだのは、髙田自身だった。
なぜ彼はアントニオ猪木に憧れたのか。なぜ新日本プロレスの門を叩いたのか。
強くなりたいから、だった。
なぜ地獄のようなスパーリングに耐えたのか。なぜ大恩ある憧れのアントニオ猪木に背を向け、藤原や前田たちと行動をともにしたのか。
やはり、強くなりたいから、だった。
新日本プロレスを離れても、髙田の心にはいつも新日本プロレスのエンブレムがあった。ライオンをモチーフとし、英文で「KING OF SPORTS」と綴られた紋章は、新日本プロレスが抗争の相手となってからも、彼にとって特別な意味を持っていた。
プロレスを、スポーツの王にしたい。
誰もが認める、絶対的な王者にしたい。
新日本プロレスのエンブレムには、髙田が求めるものが完璧に刻まれていた。
彼は、シンバになりたかったのである。
様々な別れや裏切りを乗り越え、ついに『ライオン・キング』となった、ディズニーアニメやブロードウェイ・ミュージカルの主人公シンバに。
その思いが、その強すぎる思いが、髙田の心に地雷を埋めた。
プロレスラーになるためのトレーニングが、ライオンに近づくためのものであることに、髙田は何の疑いも持っていなかった。どんなスポーツ、どんな格闘技と比較しても、自分たちのやっていることが一番厳しく、苦しいという確信もあった。
だが、プロレスラーとしての戦いは、ライオンたちがするものとはまるで違っていた。
狩りに臨むライオンは、数分、数十分先に待ち受けている運命を知らない。首尾よく成功する可能性もあれば、無残に獲物を取り逃す可能性もある。襲う相手の戦闘力次第では、自分が深手を負う危険性とてある。狩りの失敗が続けば、待っているのは餓死という哀れな末路しかない。
「プロレスは闘いである」
アントニオ猪木は常々そう口にしていたが、プロレス界には〝自流試合〟と〝他流試合〟があるという。他流試合とは文字通り、流派の異なる者同士が戦う試合のことだが、負ければ失うものが大きすぎるためか、ほとんどが自流試合で占められていた。そして、若かりし頃の髙田を逆上させる場面があった。それはたとえば酒の席でぶつけられるこんな一言だった。
「どうせプロレスなんてやらせだろ?」
耳に飛び込んできたら最後、酒の入った髙田の感情は制御を失うのが常だった。
「プロレスなめんなよ!」
そう凄みながら、相手に詰め寄っていく。あとのことは……。「インターネットの発達した時代であれば、俺たちは早い段階で選手生命を絶たれていたかも」というのは寺尾の言葉である。
髙田と寺尾が意気投合するようになったのも、もしかすると、互いに同じような地雷を抱えていたことに原因があったのかもしれない。髙田たちプロレスラーほどではないにせよ、相撲取りたちも「やらせだ」と疑いの目を向けられることが珍しくないからである。酒の入った寺尾もまた、土俵に上がるための汗と涙を否定してくる輩は放っておかない質だった。
だが、30歳を超えた髙田を苦しめたのは、熱狂的なファンの、無垢な視線だった。