萎えることもある。激昂してしまうこともある。触れると、触れられると負の感情を溢れ出させてしまうスイッチが、髙田延彦にはあった。
もう、ずいぶんと昔から。
そして、ここのところ、そのスイッチは入りっぱなしの状態だった。時に萎え、時に激昂し、投げやりとしかいいようのない心理状態に陥ることが日常的になっていた。
だから、ずいぶんと久しぶりだった。
「なにしろアビちゃんが楽しそうだったからね。カープの選手もすっかりノリノリになってくれてたし」
十年来の親友でもあるアビちゃん──寺尾のはしゃぎっぷりが、沈みっぱなしだった髙田の気持ちを、久々にコールタールのような沼から引き上げてくれていた。ちなみに「アビちゃん」とは、父親が親方を務める相撲部屋に見学に来た外国人が、赤ん坊だった福薗好文のことを指した「a baby(ア・ベイビー)」という英語を、彼の兄たちが「アビ」と聞き間違えたことに由来する、角界では広く知られた寺尾の愛称である。
もしこの日、中日ドラゴンズが広島カープを下していたら、西山と正田は繁華街に繰り出さなかったかもしれない。
繰り出したとしても、それほど明るい酒にはならなかったかもしれない。
明るい酒でなかったら、さしもの寺尾も声をかけるのが憚られたかもしれない。
髙田の気持ちが晴れるほどの、底抜けに楽しい酒宴は実現していなかったかもしれない。
だとしたら──。
彼の人生は、まったく違うものになっていた。それだけではない。格闘技の歴史も、まったく違うものになっていた。
この日、いくつかの偶然が重なって生まれた多くの笑顔は、髙田延彦に、彼自身が予想すらしていなかった、衝動的な行動をとらせることになる。